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美術館訪問記 - 450 ナンシー派美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ナンシー派美術館外観

添付2:ナンシー派美術館内部

添付3:ナンシー派美術館内部

添付4:ナンシー派美術館内部

添付5:ヘンリ・ベルジェ作
「読書」

添付6:ナンシー派美術館内部

添付7:エミール・フリアン作
「少女の祈り」

添付8:ヴィクトール・プルーヴェ作
「エミール・ガレの肖像」1892年

添付9:ヴィクトール・プルーヴェ作
「エミール・ガレ夫人と娘たち」

前々回で名前を出した「ナンシー派」とはこの町出身のエミール・ガレが中心となり、19世紀末に結成されたグループのことです。

実はナンシーは15世紀以来のガラス工芸の伝統があり、ナンシーの芸術家たちは、絵画・彫刻に代表された芸術との距離を縮めながら、ガラス工芸を中心とした装飾芸術の価値を高めることに情熱を注いできたのです。

ナンシー派の始まりは,ナンシーの工芸家ガレが,1878年のパリ万国博覧会に出品したガラス器や陶器が多くの賞を受賞して注目されたときに端を発しています。

本格的な展開は,1889年パリ万国博覧会での大々的なガレとその一門の展示品が、グランプリをはじめとする数々の大賞受賞をしたことで、一躍ナンシーがアール・ヌーヴォー運動の中心となったことによります。

エミール・ガレは1846年、ナンシーで鏡ガラス工場を経営するに生まれ、ドイツ、ヴァイマールに留学し、文学、哲学、植物学、鉱物学、建築学、生物学、装飾美術を修めています。

1877年、父に代わって工場経営者となり、高い教養と広範な知識を駆使して、ガラス工芸だけでなく、陶器、家具という幅広い分野に創造力を発揮し、ジャポニスムや象徴主義、自然主義、博物学の成果などを採り入れ、独自の幻想的なイメージを絡み合わせた特異な表現世界を確立し、成功します。

ガレは日本から留学中の高島北海から日本の美意識を直に学び、昆虫や植物、魚類などのモチーフにそれを採り入れています。

高島北海は1850年生まれの日本画家で、幼少時から画才を発揮し、長じて明治新政府の工部省に入省し、フランス人技師から仏語と地質学、植物学などを学んだ後、内務省地理局、農商務省山林局の勤務を経て、政府の命により渡英。

ヨーロッパ各地の森林視察の後、フランスに行き1885年からナンシーに3年間留学して、専門の植物地誌学を研鑽していたのです。

帰国後は10年あまり専門の林野行政に携わりながら、公務の合間に山岳を写生し、自修にて山水画の研究を進め、47歳で公職を辞して、雅号を「北海」として中央画壇での活動を本格的に始めます。

ロッキー山脈や中国への写生旅行、各種展覧会への出品、受賞、審査員履行など積極的活動を続け80歳で永眠。

芸術と植物学などの専門分野を共にする高島とガレとの交友は稀有なものでした。その成果が先に述べた1889年パリ万国博覧会のガレの大成功に結び就くのです

現在、残されたガレの作品の芸術性の高さは、比類なきものとして、今日も世界的に再評価されています。1904年、白血病により没。

ガレの率いたナンシー派のための美術館が「ナンシー派美術館」。フランス唯一つの、アール・ヌーヴォーのために捧げられた美術館です。

ナンシー派のパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装したこの美術館では、ナンシー派の貴重な作品が日常の室内空間の中に配され、当時の雰囲気が見事に再現されています。

家具、工芸品、ガラス製品、陶磁器や織物など、ナンシー派作品の華麗な技術と幅広い多様性を見せる作品からは、生活そのものを芸術化しようとした、ナンシー派の熱き情熱が感じられます。

コレクションの大部分を占めるガレの作品は、その変遷と研究の軌跡が同時に鑑賞でき、ユニークな内容となっています。

絵画では若い頃ナンシー派の家具の屏風の装飾を手伝ったことがあり、早くからナンシー派のメンバーの一人だったエミール・フリアンが1点とガレとガラス製品を制作するなど、多彩な方面で才能を発揮した画家で、彫刻家のヴィクトール・プルーヴェの3点が目に付いた程度でした。