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美術館訪問記 - 424 南オーストラリア美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:南オーストラリア美術館正面

添付2:ブグロー作「聖母子」

添付5:バーン=ジョーンズ作
「東方三博士の礼拝」

添付6:ジョン・コリア作
「デルフィの巫女」

添付7:レイトン作
「ジュリエットの偽りの死」

添付8:ジョン・ウイリアム・ウォーターハウス作
「嫉妬に燃えるキルケ」

添付9:南オーストラリア美術館内オーストラリア人画家作品展示室

添付10:ルパート・バニー作「夏の朝」

メルボルンの北西700㎞足らずの場所にアデレードがあります。 人口約133万人のオーストラリア5番目の大都市で文化と芸術の都と言われます。

街の名称は、当時、英国君主だったウイリアム4世の后で、ドイツ出身の アデレード王妃に由来していますが、1836年、オーストラリア初の イギリスの自由植民地、つまり受刑者の送り先ではない自由人たちの土地、 となった南オーストラリアの中心都市で、ここも人工計画設計都市。

この町の中心部分に「南オーストラリア美術館」があります。 

1881 年に公立図書館の 2 部屋から始まり、以降拡大し続け、現在では 38000点の所蔵品を有し、メルボルンにあるヴィクトリア国立美術館に次ぐ オーストラリア第二の規模を誇る美術館となっています。

ネオ・クラシック様式の6本の太い円柱の並ぶ入口を入ると、 左右2つの入口に別れており、右側の展示室はオーストラリア人画家たち用、 左側の展示室はヨーロッパ人画家たち用となっていました。

左側の入り口から入ると右手の壁にブグローの「聖母子」がありました。 玉座に座る聖母の膝の上に座る幼子キリストが両手を水平に広げ、 凛々しい顔で観客を見つめている。ブグローの傑作の一つです。

次の部屋はやや広めでその中央にベリンデ・デ・ブリュッケレ作の 「私達はみな肉である」という2頭の馬の身体を、頭を無くしてつなぎ合わせ、 高い梁から下げ降ろした異様な風袋の彫刻がありました。

彼女は1964年ベルギー生まれの彫刻家で、彼女のこういう作品は世界の美術館で 時々見かけます。生命の脆弱性を訴えかけているのでしょう。 私の好みではありませんが。

デュエイン・ハンソン(1925-1996)の「洗濯籠を持った女」という等身大の、 まるで現実にその人が佇んでいるような彫刻も近くに置いてありました。

アメリカ人の彼の作品は、アメリカの多くの美術館で見かけます。 アメリカ人の好みに合うのでしょう。なんだか蝋人形館の見世物のようですが、 ここにもあるところをみると、西洋人共通の好みなのかもしれません。

この展示室の左奥隅に下に降りる階段があり、降りて行くと、 ウイリアム・モリス商会の作品展示場になっており、バーン=ジョーンズが デザインした大きなタペストリー「東方三博士の礼拝」やモリスがデザインした 壁紙、スカーフなどが展示されていました。

英国以外では最大のウイリアム・モリスコレクションを誇るのだとか。 バーン=ジョーンズ作の油彩画「ペルセウスとアンドロメダ」までありました。

ジョン・コリア(1850 -1934)の「デルフィの巫女」という両眼が 異様な光を発している巫女の肖像画も迫力がありました。 添付図では眼の辺りが影になってよく判らないかもしれませんが。

ジョン・コリアは、貴族出身のイギリスの著作家、ラファエル前派の画家で、 当時の著名な肖像画家の一人でした。国王、貴族、政治家、芸術家、富豪など 著名人の肖像画を多数描いています。他にも神話、文学、歴史風俗画、 同時代風俗画など多岐にわたる作品を残しました。

レイトンの「ジュリエットの偽りの死」、アルバート・ムーアの「働き疲れて」、 ジョン・ウイリアム・ウォーターハウスの「嫉妬に燃えるキルケ」など、 ラファエル前派親派の画家たちの佳作も多く楽しめます。

ジョン・ウイリアム・ウォーターハウスはイギリス人ですが、1849年、ローマで 両親とも画家の家に生まれ、5歳でロンドンに引っ越し、父の下で画家修業後、 22歳で英国王立美術院に入学。

初期にはレイトンの影響を強く受けて、基本的にはアカデミックな要素を 濃く保ちながら、よりメッセージ性を強く含む神話や小説から好んでテーマを得て、 自らの作風を確立してゆきます。

1895年、英国王立美術院の最高芸術院会員に選ばれ、美術学校で教鞭を執りながら 1917年、死去するまで絵筆を離さなかった画家でした。

「嫉妬に燃えるキルケ」とはギリシャ神話「オデュッセイア」に登場する 美貌の魔女キルケの事で、海の神グラコウスに恋をするのですが、 グラコウスはスキュラという美少女にご執心。

嫉妬に狂ったキルケは、スキュラがいつも水浴する場所に毒薬を注ぎ込む。 そうとは知らず腰まで水に浸かってしまったスキュラは、上半身は美しい姿のまま 下半身は六匹の飢えた犬となってしまい、船が近くを通ると、 船乗りを食べてしまう怪物になってしまうのです。

ウォーターハウスのこの作品では、魔女キルケが怪魚の背に乗り、 水面に毒薬を注ぎ込む様子が描かれています。

数多く展示されていたオーストラリア人画家の中では、パリのサロンで認められた 初のオーストラリア人画家、ルパート・バニーを採り上げましょう。

彼は1864年メルボルンの裁判官の家の生まれで、20歳でロンドンへ行き、1年半 美術学校で学んだ後、パリへ渡り、フランス最後のアカデミックな画家と言われる ジャン=ポール・ローランスのアトリエで学びます。

1900年のパリ万博で銅賞を受賞するなど、パリで認められます。 1911年にオーストラリアに戻った後はフランスとの間を行き来しながら過ごし、 1933年、妻の死を機にオーストラリアに永住し、1947年没。

私が訪れた時にはバニー作品は6点展示されていましたが、いずれも華やかで 装飾的であり、外光派的な明るさに満ちていました。

(添付3:ベリンデ・デ・ブリュッケレ作「私達はみな肉である」および添付4:デュエイン・ハンソン作「洗濯籠を持った女」 は著作権上の理由により割愛しました。
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