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美術館訪問記 - 422 オーストラリア国立美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:オーストラリア国立美術館外観 写真:Creative Commons

添付2:オーストラリア国立美術館内部アボリジニ・コーナー

添付3:オーストラリア国立美術館内部アジア・コーナー

添付4:ポロック作
「青い柱」1952年

添付5:オーストラリア国立美術館内部ヨーロッパ・コーナー

添付6:セザンヌ作
「ナポリの午後」

添付7:ボナール作
「鏡の前の女」

添付8:オーストラリア国立美術館内部オーストラリア・コーナー

ヨーロッパの国々の話が2年間近く続きました。 今回は南半球に飛んでオーストラリアの首都キャンベラにある 「オーストラリア国立美術館」を採り上げましょう。

ここは1967年に設立されたオーストラリア最大の美術館。 16万6,000点もの作品が所蔵され、11のギャラリーには、 オーストラリアはもちろん世界各国の絵画や彫刻のほか、 アボリジニやアフリカ、アジア、パシフィックの芸術作品が展示されています。

見応えのある作品が多い中で、特筆すべきはポロックの大作「青い柱」。 211 x 488cm。彼の最高傑作と言えるでしょう。

この「絵」は現代作品にはあまり興味を持てない私を強く惹き付けました。

主題もなければ、中心もなく、周縁もなく、始まりもなければ、終わりもない。 赤、白、黄、青色の線が黒色に塗られた基盤の上を跳ね回り,のたうつ。 それらの上に最後に引かれた8本の太い青線。

混沌の中の道しるべか、無意識の中の方向性か、開放を求める魂の蠢きか。 そういう思念に関わりなく感じる心地よさ。 この感覚だけはこの大画面の前でなければ味わえない。

ポロック曰く「作品はちょうど音楽が楽しまれるように味わわれればいい。 暫くするとそれを好きになったりならなかったり、しかし現代の絵をどのように 見たらいいかということは、そんなに深刻な問題だとは思えない。 私にとってはある花は好ましく、また別の花は好ましくない。 でもそれは少なくとも何か与えてくれるでしょう」。

ジャクソン・ポロックは1912年、アメリカ、ワイオミング州コーディに生まれ、 ニューヨークに出て画家への道を歩みます。

第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との 交流や、かねてから尊敬していたピカソやミロらの影響により、 しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになって行きます。

1943年頃から、キャンバスを床に広げ、刷毛やコテで空中から塗料を滴らせる 「ドリッピング」や、線を描く「ポーリング」という技法を使い始めます。

床に置いて上から滴らせる技法は子供の頃見ていたインディアンの砂絵の 影響によると言われますが、このことにより、カンヴァスは対象を再現し 表現するためのものから、行為をするための舞台へと大変化したのでした。

ポロックは「アクション・ペインティング」の旗手と呼ばれます。 「行為としての絵画」とでも訳すのでしょうか。

彼は単にキャンバスに絵具を叩きつけているように見えますが、 意識的に絵具のたれる位置や量をコントロールしているといわれます。

ポロックはアメリカを代表する画家と呼ばれるようになったプレッシャーや、 アルコール依存症の再発、新たな画境が開けないなどの理由で、 この絵を仕上げた頃から混迷期に入り、1956年8月、 若い愛人とその友人を巻き添えに自動車事故を起こし、44歳で死亡しています。

他にもセザンヌ、モネ、ドラン、ボナール、ムハ、リヒテンシュタイン、ロスコ、 ホックニーなどの良作がありました。

特にセザンヌの「ナポリの午後」は、彼としては例外的な男女のヌードを描いた 作品で、自身のスタイルの模索期の作品ですが、実に珍しい。

国立美術館ですから、オーストラリア人画家の作品は沢山展示されています。 中ではシドニー・ノーランに1室が与えられ、29作品もあり、壮観でした。

シドニー・ノーランは首都にある国立美術館のこの待遇でも判るように、 オーストラリアを代表する画家です。

1917年、メルボルンの生まれで国立美術館付属美術学校に学び、 1937年の現代美術協会設立に参加。

最初は抽象画を描いていましたが、1942年、軍隊への召集により、 オーストラリア内陸部でその荒涼とした風景に触発され、 具象性のある作品が増え、「オーストラリアの画家」として目覚めていきます。

オーストラリア最高のブッシュレンジャーであるネッド・ケリーの生涯に インスピレーションを得、彼を主題とする一連のシリーズを描き上げますが、 大衆的人気のあるケリーを扱ったこれらの作品は、 今日までノーランの作品群の中でも著名なものとして知られています。

ブッシュレンジャーとは、低い木の林の中に潜んでいるギャングのことで、 1854年生まれのケリーは銀行強盗をしては、貧しい移民のオーストラリア人に 金を分け与え、当時オーストラリアを支配していたイギリス人の横暴な権力者や 警察に対し、命をかけて反抗を繰り返しました。

そして最後は、酒場に立てこもり、鉄兜と鎧を着て、警官たちと激しい銃撃戦を 繰り広げた後、逮捕され26歳の若さで処刑されてしまうのです。

オーストラリアの自然と、開拓者たちの物語を何よりも愛し、 作品へと昇華させたノーラン。彼が追い続けた鉄兜のならず者は、 オーストラリアの大地を駆け抜け、伝説となりました。

ノーランは1950年頃からヨーロッパを中心に世界中を巡りながら、 作品を仕上げていく生活スタイルを採り、イギリスからはナイトを、 オーストラリアからは勲章を得、アメリカ芸術・文学アカデミーの名誉会員にも なるなど、功成り名遂げて1992年、ロンドンで死去。

(添付9:シドニー・ノーラン・コーナーおよび 添付10:シドニー・ノーラン作「ネッド・ケリー」は著作権上の理由により割愛しました。
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