戻る

美術館訪問記 - 417 国立ジロラミーニ記念館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:国立ジロラミーニ記念館入口

添付2:ジロラミーニ教会ファサード
写真:Creative Commons

添付3:国立ジロラミーニ記念館クロイスター

添付4:リベーラ作
「大ヤコブ」

添付5:アンドレア・サバティーニ作
「東方三博士の礼拝」

添付6:ジロラミーニ教会内部

添付7:ジロラミーニ教会内礼拝堂の一つ

添付8:フランチェスコ・デ・ムーラ作
「聖フランシスコ・サレジオとシャンタルの聖フラシスカ」

添付9:上記作品の説明書き

添付10:フランチェスコ・デ・ムーラ作
「芸術の寓意」ルーヴル美術館蔵

ナポリ大聖堂の前に道路を隔てて向き合ってあるのが「国立ジロラミーニ記念館」。

ここは1866年に国の記念施設に指定され、ジロラミーニ教会、絵画館、 ジロラミーニ図書館からなる複合施設で、現在入口になっているのは 昔のジロラミーニ修道院。

ジロラミーニ教会はその奥にあり、ナポリ大聖堂の右にあるトリブナリ通りを 右に曲がって直ぐの所にファサードがありますが、扉はいつも閉まっています。

この教会に入る入口が全く別の場所にあり、しかもその入口が商店などが並ぶ 一見、普通の建物の一角にあるのですから、知らなければ、入れない。 しかもナポリの教会では例外的に入場料を払わなければ入れません。 そのためか、1時間近い見学中、入場者は一人も見かけませんでした。

入口を入るとすぐクロイスター(中庭回廊)があり、それを過ぎると絵画館。 ナポリで活躍した画家たちの作品が並んでいます。

ナポリ派の筆頭に来るリベーラが4点ありました。 中では「大ヤコブ」の図像が珍しい。右手に巡礼杖を持っているのは普通ですが、 この絵では左手に書状を握りしめています。

大ヤコブはキリストの12使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟。 漁師の子供で、弟ヨハネとガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていた所を キリストに呼ばれ、父や使用人たち置き去りにしてキリストに従います。

母サロメは聖母マリアの妹で、その関係もあったと考えられます。

キリストの活動初期からの弟子で、ヨハネ、ペトロと共にキリストの三側近。 12使徒の中では最初の殉教者で、それだけ影響力があったのでしょう。

ナポリの南、サレルノ出身でダ・サレルノと呼ばれるアンドレア・サバティーニの 「東方三博士の礼拝」が、カラヴァッジョ風の明暗法の絵が多い中で目立ちました。

彼は1480年生まれでラファエロの3歳年上ですが、ナポリで修業後ローマに出て ラファエロの弟子となり、ヴァティカン宮殿でラファエロと一緒に働いています。

少し迫力には欠けますが、ラファエロの調和のとれた完成度の高さを よく受け継いでいると感じました。

絵画館を出て、側面入口からジロラミーニ教会に入ると、三廊式の堂々たる構え。 中央身廊の天井装飾が半分欠落していますが、大理石の床や列柱、壁面や側廊天井、 アーチ部分にも隈なく装飾が施され、側廊には立派な礼拝堂が並んで豪華です。

各礼拝堂には祭壇画が掲げられ、ナポリで活躍したルカ・ジョルダーノが11点、 グイド・レーニやナポリ生まれの画家フランチェスコ・デ・ムーラの作品なども あり、この教会だけでも訪れる価値が十分にあります。

フランチェスコ・デ・ムーラは1696年、ナポリの生まれで、第321回で詳述した フランチェスコ・ソリメーナの下で修業し、18世紀のナポリでは、同年生まれの ティエポロにも匹敵する、装飾的で色彩に富んだ画家と言われます。

45歳の時にトリノの王宮に招かれ、3年間フレスコ画装飾などを手がけた以外は 主にナポリで活躍し、教会を飾る壁画や祭壇画、肖像画を多く残しています。 晩年には新古典主義的な作風に変わり、1782年没。

彼の作品も師のソリメーナ同様、欧米の美術館でよく目にします。

ここの展示作品説明書きには、絵画の修復費用が書き出されてあり、例えば添付の デ・ムーラ作品「聖フランシスコ・サレジオとシャンタルの聖フラシスカ」の 修復料は7272ユーロ。約95万円。修復のための寄付金を募る目的なのでしょうが、 教会内でこのようなものは見た記憶がありません。

聖フランシスコ・サレジオはフランス語読みではフランソワ・ド・サール。 1567年南フランスのサールの貴族として生まれ、名門パリ大学で法律を学びながら カトリック司祭に転じ、プロテスタント勢力下のジュネーヴの司教となり、 困難な状況にあっても熱心な説教や判り易く書かれた著作によって活躍し、 優れた精神的指導者として名声を得、死後聖人に列せられています。

シャンタルの聖フラシスカは1572年フランスのディジョンの貴族の家に生まれ、 敬虔なカトリック信者として育ち、貴族の男性と結婚。 子宝に恵まれ、夫婦生活は良好でしたが、夫は不慮の事故で死去。

未亡人となりますがその悲しみを乗り越え、ジュネーヴの司教だった フランシスコ・サレジオと出会い、1610年、彼とともに「聖母訪問会」という 女子修道会を創立。以後、修道女としての道を歩みます。死後列聖されています。