1759年、カルロ7世の後を継いだナポリ王フェルディナンド4世は、 父親から受け継いだ膨大な数の美術品、芸術品、出土品のコレクションを、 まとめて保存、展示する博物館として、16世紀に騎兵兵舎として建てられた ストゥディ館の改装に着手しました。
フランス革命やナポレオンの支配などにより、改装は何度も中断を余儀なく されましたが、1816年に、「ナポリ王立ブルボン家博物館」として完成しました。
その後、1861年の統一イタリア王国成立に伴い、「ナポリ国立考古学博物館」と 名前を変え、現在に至っています。
カポディモンテの丘を下りきった場所にあり、地下鉄ムゼオ駅と直結しています。
1階には世界でも屈指と言われるギリシャ・ローマ時代の彫刻、 中2階にはポンペイやエルコラーノなど、ヴェスヴィオ山周辺の遺跡から 発掘された日用品や宝飾品、モザイクなどの出土品、 2階には古代都市出土品やエジプトからの出土品が並んでいます。
特に1階の大理石彫刻作品群は、殆どが紀元前4-5世紀の作品を、 紀元前1世紀-紀元後1世紀頃に模刻したものですが、 いずれもその美的完成度の高さに驚かされます。
なかでも「ファルネーゼの牡牛」のダイナミックさ、 「ファルネーゼのヘラクレス」の重量感、 「カプアのプシュケ」の近代的美しさにはハッとさせられました。
「ファルネーゼの牡牛」は1545年、ローマのカラカラ浴場から出土した、 ギリシャの彫刻家タウリスコス(紀元前1世紀)の、原作に基づく、摸刻です。
この発掘を命じたのがファルネーゼ家出身のローマ教皇パウルス3世で、 めぼしい古代彫刻を見つけてローマの自宅を飾るためだったといいます。
修復を命じられたミケランジェロは余りの素晴らしさと完成度に言葉を失ったとか。
この彫刻はギリシャ神話から主題を採っており、テーバイ王リュコスの妻 ディルケーは夫の前妻アンティオペーがゼウスの愛を受けて身ごもったのを虐待し、 奴隷のように扱います。アンティオペーが生んだ双子ゼートスとアムビーオーンは 実母に加えられた屈辱を晴らすため、ディルケーを牡牛に縛りつけて復讐します。
彫刻はまさにその緊迫した場面を表現していて、 ピラミッド型にアレンジされたフォルムが緊迫感を一層増しています。
「ファルネーゼのヘラクレス」もその名の通り、「ファルネーゼの牡牛」と同じく、 カラカラ浴場から出土したもので、リュシッポスの原作(紀元前4世紀後半)を、 大理石で摸刻したものです。
高さ317㎝という巨大なヘラクレス像は小さめの顔が筋骨逞しい体躯をいっそう 強調する形になっており、棍棒にもたれて休息するヘラクレスの典型として 後世にも繰り返しコピーされています。
「カプアのプシュケ」はナポリの北30㎞ほどのカプアにある円形闘技場で発見され、 断定はできないものの、一般にはプシュケと呼ばれています。
プシュケもギリシャ神話に登場する人間の娘で、その美しさには 美の女神ヴィーナスでさえ嫉妬するほどで、息子のキューピッドに命じて 愛の弓矢を使って卑しい男と恋させようししますが、キューピッドは その美しさに戸惑い、誤って自分を傷つけ、プシュケに恋してしまうのです。 その後も長い物語が続きますが、興味のある方は検索してみて下さい。
この彫像は左のわき腹が大きく欠損していますが、俯いた頭部から肩にかけての 線が美しく、風貌がいかにも近代的で魅了されたのです。
物思いに沈んだ表情は、キューピッドの差し出した鏡を見ているとも考えられて おり、紀元前4世紀の原作を紀元前1世紀に摸刻したと推定されています。
中2階の展示品のモザイク、壁画は美的水準も高く、 改めて古代から続く西洋美術の伝統について考えさせられました。
「アレクサンダ-大王のイッソスの戦い」は、ポンペイのファウヌスの家で 1831年、発見された壮大なスケールの舗床モザイク画(271 x 512cm)。
紀元前333年のイッソスの戦いの壁画を紀元前1世紀頃にモザイク画に 移し替えたと考えられており、アレクサンダ-大王側にかなりの欠落がありますが、 描かれた人物の表情の豊かさ、荒い鼻息が聞こえて来そうな軍馬の躍動感には 思わず見惚れてしまいました。
さらに驚かされたのは「辻音楽師」のモザイクの卓越した色使いと生き生きとした 写実的描写。とても紀元前3世紀に制作されたとは信じられません。
ポンペイのキケロの家にあったこの作品は、サモのディオスコウルデスという モザイク師のサインが左上に入っていることでも稀少な例です。
ポンペイに壁画として残っていた風景画も驚異的でした。 このような彩色と立体的描写が2000年前に存在していたとは。 さらにそれらの技法がルネサンス時代まで忘却されてしまっていたとは。
なお、この博物館には「秘密の小部屋」という子供は連れていけない 発掘品を集めた一室もありました。