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美術館訪問記 - 408 サンタ・コローナ教会

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サンタ・コローナ教会外観

添付2:サンタ・コローナ教会ファサード

添付3:サンタ・コローナ教会内部

添付4:サンタ・コローナ教会主祭壇

添付5:ガルツァドーリの祭壇 写真:Creative Commons

添付6:ジョヴァンニ・ベッリーニ作
「キリストの洗礼」

添付7:ジョヴァンニ・ベッリーニ作
「キリストの洗礼」上部

添付8:バルトロメオ・モンターニャ作
「マグダラのマリアと聖人達」

添付9:レアンドロ・バッサーノ作
「聖アントニウス」 写真:Creative Commons

添付10:パオロ・ヴェロネーゼ作
「東方三博士の礼拝」写真:Creative Commons

キエリカーティ宮殿から100m足らず西に行くとあるのが「サンタ・コローナ教会」。

コローナはラテン語で冠を意味し、 この教会は13世紀に、時の司教がフランスのルイ9世から贈り物に貰った、 キリストが被せられた荊冠を聖遺物として祀る為に建てられました。

当時としては壮大な教会は1261年に建築が始まり、その司教が亡くなった 1270年にはすでに完成していたといいます。

パッラーディオ設計のヴァルマラーナ礼拝堂があることでも有名で、 パッラーディオ自身、この教会にある家族の墓に1845年まで眠っていました。 その後新しくできたヴィチェンツァ記念墓地の彼個人のための墓に 移し替えられています。

教会はさほど広くない道路に面しており、正面からの写真では全貌が掴めません。 例外的にかなり斜めからのショットになりました。

ファサードは特徴のあるドミニク派の赤茶色のゴシック様式。 教会の入口のタンパン(西洋建築において、入口の頭上、アーチと梁に囲まれた部分) には二人の兵士に侮辱される荊冠のキリストの彫刻がありました。

内部は三廊式で柱や壁、天井全てが白塗りで装飾はなく明るい。

主祭壇は色大理石で象嵌された2段の上に白大理石と赤大理石で彫刻された 2段が乗る見事なもの。 1670年、フィレンツェのアントニオ・コルベレッリの手になるもので、 多色大理石、サンゴ、ラピスラズリ、真珠などで作られ、 これほど立派に象嵌細工を施された大きな祭壇は珍しい。

他にも素晴らしい祭壇がありました。ヴィチェンツァの名家ガルツァドーリ寄進の 4本のコリント式柱頭で飾られた石造りの祭壇の中央に ジョヴァンニ・ベッリーニの傑作「キリストの洗礼」があるのです。

壮麗な祭壇と稀代の名手の画が見事に調和し、 ルネサンス祭壇の傑作と言えるでしょう。

この絵は1502年に奉納されたので、ジョヴァンニ・ベッリーニは 70歳を過ぎていますが、400 x 263cmというこの超大作を完全な構成で 描き切っているのは流石と言うしかありません。

これと比べると祭壇の造りはやや簡素になるものの、 単独で見れば堂々たる石造りの祭壇の中央にバルトロメオ・モンターニャの 最高傑作と言える「マグダラのマリアと聖人達」もありました。

ヒエロニムス,パオラ,モニカ,アウグスティヌスの四聖人の中央の玉座の上に、 右手に油壺を持ったマグダラのマリアが、聖母マリアが身に着けるような 赤色のマントを纏い、仁王立ちしています。

他にこのような図柄を見た記憶がありません。

振り返ってみると、これまで何回も登場して来た、 これらの聖人たちの説明はしたことがありませんでした。

聖ヒエロニムスはイタリアのアドリア海を隔てた東隣の国ダルマチアの出身で 歴史上の人物。347年頃キリスト教徒の両親のもとに生まれましたが、彼自身は キリスト教に興味がなく、ローマに留学したのも修辞学と哲学の勉強のためでした。

ギリシャ語を習得し、古典の研究に没頭しましたが、373年ごろアンティオキアで 重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意。 シリアの砂漠で隠遁生活を送ってヘブライ語を学びます。

この時棘を刺したライオンを救ってやったという逸話から、彼を描いた絵には 通常ライオンが侍っています。

382年、ローマへ行ってローマ教皇ダマスス1世に重用され、 ラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかります。

384年にダマスス1世が世を去ると、庇護を失ったヒエロニムスはローマを去って ベツレヘムに落ち着き、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年頃完成。

この聖書こそが中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまで カトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書です。 ウルガータはラテン語で「公布されたもの」という意味です。 420年にベツレヘムで没するまでに、多くの神学的著作、書簡を残しています。

聖ヒエロニムスは聖母マリア、キリストに次いで宗教絵画に多く登場する人物です。

聖パオラも歴史上の人物で347年、ローマの元老院議員の娘として生まれ、 貴族と結婚し、5人の子供を設け、32歳で未亡人となり、宗教にのめり込みます。

382年、ローマに出て来たヒエロニムスと知り合い、彼と共にベツレヘムに赴き、 彼の翻訳の手助けをしながら、男性修道院と女性修道院を設立し、404年死亡。

1600年以上前の事柄が明確なのは、聖ヒエロニムスが彼女や彼女の家族の事を 事細かく手紙や文書で書き残しているからなのです。 聖ヒエロニムスは死亡後、聖パオラの墓の傍に葬られています。

聖モニカは、ヒッポの司教アウグスティヌスの母で、キリスト教の聖人。 歴史上の人物。331年生、387年没。

彼女は、アウグスティヌスの著作「告白」によると、アルジェリアでキリスト教の 家庭に生まれ育ち、長じて異教徒の男性と結婚しアウグスティヌスらを産みますが、 夫の暴力や浮気性に悩まされました。

さらに息子のアウグスティヌスが成長して放蕩生活を始めたことにも悩み、 夫と息子の回心のために祈る日々が続きました。この祈りが届いたのか、 夫は死の前年に回心してキリスト教徒となります。

夫の死後、息子を追ってイタリアに渡っていたモニカは親子共に ミラノ司教であったアンブロージョの知己となり、大きな影響を受けます。 ここでアウグスティヌスはアンブロージョから洗礼を受けました。 息子の洗礼後ほどなくしてモニカはオスティアで没します。

モニカは東西教会の両方で、異教徒の夫をもったキリスト教徒女性の模範にして 守護聖人として尊ばれています。さらに夫を亡くした婦人や既婚女性全般、 ドメスティック・バイオレンス被害者の守護聖人でもあります。

アメリカ合衆国、カリフォルニア州、ロサンゼルス郡の西部に位置する市 サンタモニカは、彼女に由来します。 

聖アウグスティヌスは聖モニカの息子で歴史上の人物。354年生、430年没。

彼の前半生は自著「告白」に詳述されていますが、自分の罪を神の前で懺悔する、 カトリック特有の儀式の先鞭をなすもので、若い頃に犯した肉欲の罪と マニ教という異教への傾倒、占星術への執心などへの深い後悔を述べ、 キリスト教へのめざめと思考の深化を記述したものです。

「告白」は398年に書かれ、彼の存命中から広く読まれていました。

387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、 息子や仲間と共に一種の修道院生活を送りましたが、この時に彼が定めた規則は 「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなります。

410年のゴート族によるローマ陥落を機に、噴出したキリスト教への非難に応え、 「神の国」という全22巻の大著を表し、古代思想の巨人と称えられます。

聖アウグスティヌスは、聖アンブロージョ、聖ヒエロニムスと共に 4世紀のローマ帝国に生き、当時勃興しつつあったキリスト教とカトリック信仰に 対して、礎石を築いた人です。

アンブロージョは教会と国家に関する教会側の見解を代表し、 ヒエロニムスは聖書をラテン語訳するとともに、後の修道院の体制を整え、 アウグスティヌスは、カトリックの教義を整え、中世を通じて正当化されるに 至ったカトリック神学の礎石を築いたのでした。

  サンタ・コローナ教会内には、他にもレアンドロ・バッサーノの「聖アントニウス」、 パオロ・ヴェロネーゼの「東方三博士の礼拝」、 ジョヴァンニ・バッティスタ・ピットーニの「玉座の聖母子と聖人達」、 ロレンツォ・ヴェネツイアーノの原画にマルチェッロ・フォゴリーノが補筆した 「星の聖母」等の祭壇画が綺羅星のごとく並んでいました。