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美術館訪問記 - 403 ガッレリア・デイタリア美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ガッレリア・デイタリア美術館正面

添付2:ガッレリア・デイタリア美術館大広間

添付3:ガッレリア・デイタリア美術館展示室内

添付4:カノーヴァ作「正義」
写真:Creative Commons

添付5:アイエツ作「アブラダタスの死」
写真:Creative Commons

添付6:セガンティーニ作
「聖アントニオ合唱の間」
写真:Creative Commons

添付7:ウンベルト・ボッチョーニ作
「三人の女達」

添付8:ウンベルト・ボッチョーニ作
「庭に立つ女性」

ミラノ関連が12回続きました。最後に採り上げるのは2011年11月に開館した 「ガッレリア・デイタリア美術館」。

美術館は、ヴィットーレ・エマヌエーレ2世のガッレリアの、 ドゥオーモとは反対側にある、スカラ広場に面して建つ3階建ての 豪壮な新古典主義の宮殿内にあります。

「ガッレリア」とはイタリア語で、美術品の展覧会場を指す英語のギャラリーの 意味と、マーケティング・アーケードの意味があります。 「ガッレリア・デイタリア美術館」は前者、 「ヴィットーレ・エマヌエーレ2世のガッレリア」は後者の意味です

ここはイタリア商業銀行とインテーザ・サンパウロ銀行のスカラ広場支店が 入っていた場所で、2011年よりカリプロ財団とインテーザ・サンパウロ銀行の 共同プロジェクトとして美術館に変身。

内部は王宮のような豪華な造りで、広いガラス天井からの陽光が 吹き抜けになったフロアに降り注いでいます。

展示品は1800年代後半から1900年代前半までの絵画が中心で、 イタリア近代アートの軌跡を辿れるようになっています。

ミラノにある銀行に保管してあったものや個人が収蔵していたものを集めて 展示しているため、これまで世間の目に触れて来なかった素晴らしい作品が多く、 所蔵作品は384点に上るとか。

1790年代に作成されたカノーヴァの浮き彫りも13点ありました。

アントニオ・カノーヴァは何度か名前は出しましたがまだ解説していませんでした。

彼は1757年ヴェネツィアの北方ポッサーニョで生まれ、父も祖父も石工や彫刻家で、 父が早く亡くなり、祖父が家業を継いでもらうため、カノーヴァに手ほどきをし、 幼いころから才能を発揮し、すぐに祖父を手伝えるようになったといいます。

彼は才能を見出したヴェネツィア貴族の庇護を受け、本格的な彫刻家の下で 修業後、奨学金を得てローマに出、古代ローマの遺跡の勉強をすることで 自分自身を完成に向かわせることができたのです。

考古学、歴史、解剖学、さらにイタリア語以外のヨーロッパの言語も学び、 新古典主義の傑出した彫刻家であり、最高水準の知識人であり、 当時のヨーロッパ美術に多大な影響を与えた揺るぎない巨匠となって行くのです。

サン・ピエトロ大聖堂の教皇墓をはじめ数々の大規模な仕事をこなし、この時期の ヨーロッパ彫刻の大部分を支配した古典主義的風潮に指導的役割を果たしています。

侯爵位を得たり、ローマの美術協会会長に就任したり、 3000クラウンの年金を得るなど、功成り名遂げて、1822年、ヴェネツィアで没。

カノーヴァの作品の前に立つと、それがもともとは硬い大理石であったことを 忘れてしまいます。表面の滑らかで優美な仕上げに気品漂う美しさを感じ、 秀麗な美に魅せられてしまうのです。

彫刻にはあまり関心がない私でも、カノーヴァの彫刻は一目で彼の作品と判る アイデンティティーを備えています。 それが世界中の名だたる美術館に彼の作品がある所以でしょう。

アイエツの秀逸な歴史画が4点ありました。添付した「アブラダタスの死」は ギリシャ悲劇の中の話で、スサの王アブラダタスが戦死して共に戦ったキュロスの 兵士たちに抱きかかえられている場面です。

この絵は大作の一部がカットされたものと考えられています。

セガンティーニがブレラ美術学校の夜学校に通っていた頃の、 彼の今に残る最初期作品である「聖アントニオ合唱の間」があったのは嬉しかった。

前回詳述したウンベルト・ボッチョーニの絵画作品も4点ありました。

恋人のイネスを中心に母と姉の3人の女性を描いた 彼の代表作の一つ「三人の女達」と、3点の印象派風な風景画で、 いずれも銀行が収集するにふさわしい、 ボッチョーニ作品としては穏やかなものでした。