美術館訪問記 -397 ブレラ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ブレラ美術館
写真:Creative Commons

添付2:ベッリーニ作
「ピエタ」

添付3:マンテーニャ作
「死せるキリスト」

添付4:ベルゴニョーネ作
「聖母と眠るキリスト」

添付5:ヴィンチェンツォ・フォッパ作
「幼児キリストの神殿拝殿」

添付6:アイエツ作
「接吻」

添付7:タンツィオ・ダ・ヴァラッロ作
「長崎でのフランシスコ会信者たちの殉教」

添付8:タンツィオ・ダ・ヴァラッロ作
「紳士の肖像」「淑女の肖像」

添付9:フィリッポ・デ・ピシス作
「花と壜のある静物」

添付10:フィリッポ・デ・ピシス作
「窓辺の花」

ミラノが5回続きましたが、ミラノに来れば「ブレラ美術館」は欠かせません。

「ブレラ」という名はこの周辺が昔「ブレイラ(野原)」と呼ばれていたことに 由来しており、建物は昔教育施設でしたが、ナポレオンがイタリアを征服した時に 美術館に変えさせ、1809年、彼の40歳の誕生日に開館させたといいます。

2階建ての柱廊の美しい建物の2階が美術館。 中庭にはシーザー姿のナポレオン像が置かれています。

ここは世界有数のイタリア絵画の宝庫で、観るべき絵が多く、 ジョット, アンジェリコ、リッピ等のトスカーナ系の絵画はありませんが、 それ以外のイタリア人画家の作品は殆ど揃っています。

ピエロ・デッラ・フランチェスカとカラヴァッジョの1点ずつは凄いし、 ベッリーニ、マンテーニャ、ベルゴニョーネの4点ずつも光を放っています。

ベッリーニの「ピエタ」の画面下部には「これらの腫れた眼が悲しみを誘うなら、 ベッリーニのこの作品は涙を流すであろう」と書かれています。

15世紀ロンバルディア派の代表する画家ヴィンチェンツォ・フォッパの 「幼児キリストの神殿拝殿」が、明るく写実的で、 初めて訪れた時は、とても彼の作とは認識できず、意表を突かれました。

他にもクリヴェッリ、コスメ・ツーラ、カルパッチョ、ソドマ、ロット、 ラファエロ、ティツィアーノ、ブロンヅィーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、 チーマ・ダ・コネリアーノ、ティエポロ、カナレット等枚挙に暇がありません。

ルーベンス、ヨルダーンス、ダイク、レンブラント等のフランドル系もあります。

モランディ18点、フィリッポ・デ・ピシス15点、アイエツ8点、 モディリアーニ3点等近代絵画も充実しています。

名作が揃う中でこれまで紹介していなかった二人の画家を採り上げましょう。

一人目はタンツィオ・ダ・ヴァラッロ。本名アントニオ・デンリコ。

1582年頃ミラノの北西、マッターホルン山近くの生まれで、父ジョヴァンニが 彫刻工房を営んでおり、初めは父から彫刻の手ほどきを受けたと思われますが、 画家としての修行過程、画風形成の過程は不明です。

タンツィオとは生誕地の方言でジョヴァンニの息子という意味の仇名です。

1600年ローマに行き、15年間留まってカラヴァッジョ風のリアリズムを、 ロンバルドの後期マニエリスムの優雅さによって修正し、力強い表情の人物表現、 写実的で明暗を強調した躍動感溢れる表現など独自の画風を確立しました。

その後生まれ故郷に近いヴァラッロに戻り活躍後1633年、同地で死亡。

ここには「長崎でのフランシスコ会信者たちの殉教」「紳士の肖像」「淑女の肖像」 の3作が展示されていましたが、いずれも確固とした存在感を持っており、 彼の作品が世界の著名美術館に所蔵されているのが納得できます。

「長崎でのフランシスコ会信者たちの殉教」は1597年、豊臣秀吉の命令によって 長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者たちを想像で描いたもので、 日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのは これが初めてでした。

この26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、 彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれています。

フィリッポ・デ・ピシスも何回か名前は出しましたがまだ説明していませんでした。

彼は1896年フェッラーラの貴族の家系に生まれ、子供の頃から絵画を学びます。 始めは文学指向で大学の文学部在籍中の1916年に詩集を出版。

同年フェッラーラでキリコやカルロ・カッラに出会い、形而上絵画に手を染めます。

1920年よりローマに移って絵画制作を本格的に開始。 1925年にはパリに移住し、39年まで滞在します。 パリでは印象派やフォーヴィスムの影響を受け、 明るい色彩と軽やかな筆致による画風を確立します。

30年代には文学と美術両方の領域で活躍し、 ヨーロッパ各地で個展やグループ展を開催しています。

第二次大戦が迫ると、イタリアに帰国しますが、ほどなく病を得て療養生活を 余儀なくされ、そのまま1956年、死亡。

彼の本領は1930年代以降にあり、独特の素早く省略した筆捌きと、濃密な色彩、 時にはキャンバスの地が露わになるほど掠れた線描と広い空間で、 美への鋭敏な感覚をほしいままにしているかのように見えます。

彼の作品も欧米の多くの近現代美術館で見かけます。