美術館訪問記 -395 サンタ・マリア・デイ・ミラコリ・プレッソ・サン・チェルソ教会

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ミラノ市街図

添付2:サンタ・マリア・デイ・ミラコリ・プレッソ・サン・チェルソ教会(左側)とサン・チェルソ教会(右側)  写真:GFDL

添付3:ファサード頂部

添付4:ファサードの彫刻

添付5:教会天井

添付6:教会の床

添付7:中央祭壇左脇の聖母子線描

添付8:「聖母子と聖ナザリオと聖チェルソ」14世紀作

添付9:ベルゴニョーネ作
「幼子キリストへの聖母の礼拝」

添付10:パリス・ボルドン作
「聖家族と聖ヒエロニムス」

ミラノはドゥオーモ広場を中心としたいびつな形の環状道路が幾つか取り巻いた 形状をしていますが、その一番内側の環状道路と2番目の環状道路との中間で ミラノ市の真南に当たるところにあるのが 「サンタ・マリア・デイ・ミラコリ・プレッソ・サン・チェルソ教会」。

この長い名前は「聖チェルソ教会付属奇跡の聖マリア教会」という意味です。

隣には小さなサン・チェルソ教会が並んで立っています。 2つの教会は煉瓦の柱廊で区切られていて、 サン・チェルソ教会はいつも扉が閉まっているようです。

第393回で詳述した聖アンブロージョが395年頃この場所で聖チェルソの遺骨を 発見しその場所にサン・チェルソ教会を建立したといいます。 サン・チェルソ教会は11世紀に再建され18世紀に改修されています。

聖アンブロージョはその時聖ナザリオの遺骨も発見し、別の場所に サン・ナザリオ教会も建立しています。

古代ローマでキリスト教迫害が始まったころ、ナザリオは自らの危険を顧みず、 熱心に宣教をしていましたが、ゴールに逃れ、チェルソという子どもの世話を 頼まれます。ナザリオは、チェルソに洗礼を授け、その後ドイツで宣教します。 最後にミラノで捕えられ、二人とも処刑されたと伝えられています。

サンタ・マリア・デイ・ミラコリ・プレッソ・サン・チェルソ教会の建設は 1493年にルネサンス様式で始まり、 16世紀末、マニエリスム様式のファサードの完成で終了しています。

壮麗な白大理石のファサードのあちこちには、聖書の場面の白大理石彫刻が飾られ、 最上部には右と左に長いラッパを吹く天使が立っていますが、 向かって左側の天使の持つラッパは吹き口が口ではなく目に当たっていました。

教会の奏使者が来られたので、左側の天使は何をしているのか聞いてみると、 たどたどしい英語でラッパが少しずれているだけで特別な意味は無いと言います。

それから突然雄弁になり、ファサードの彫刻一つ一つを説明してくれ、 ついには教会の中に入り、天井と床の模様がいかに対応しているか、 中央祭壇左脇に漆喰の上に聖母子の線描があるが、あれは1485年12月30日に 上の覆いが取れ突然現れたもので、その時聖母マリアの顔が動いているのを、 300人以上の参列者が目撃し、証言が残っている、とか話してくれました。

この奇蹟を記念してこの教会が建設され、以来この教会は サンタ・マリア・デイ・ミラコリ(奇跡の聖マリア)と呼ばれているとか、 中央祭壇左側2番目のフレスコ画「聖母子と聖ナザリオと聖チェルソ」の聖母が 1620年7月13日と14日、瞬きしていたのを25人以上が目撃するという 2番目の奇蹟が起こったとか、
左側中央にある石棺は暗くて気付かなかったのですが、彼が電気を点けてくれて、 「これが中央祭壇下にガラス容器に入っているサン・チェルソの石棺だ」とか、 実に親切に説明してくれました。

仕上げには、どこからか教会についての英文パンフレットを持ち出してきて プレゼントしてくれました。

本人はインド系のように見え、スリランカから来たと言われていましたが、 実にありがたかった。こういう幸運もたまにはあるのです。

各礼拝堂にはそれぞれ大きな板絵があり、入口一番手前には 出来の良いベルゴニョーネの「幼子キリストへの聖母の礼拝」がありました。

パリス・ボルドンの「聖家族と聖ヒエロニムス」もあるのでした。