美術館訪問記 -389 メムリンク美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ロッホナー作三幅祭壇画
「東方三博士の礼拝」
ケルン大聖堂蔵

添付2:メムリンク作
「聖ウルスラの聖遺物箱」

添付3:メムリンク作
「聖ウルスラの聖遺物箱」中「ケルン上陸」

添付4:メムリンク作
「聖ウルスラの聖遺物箱」中「聖ウルスラの殉教」

添付5:メムリンク作
「聖ウルスラの聖遺物箱」中「聖ウルスラ」

添付6:メムリンク美術館入口

添付7:クロード・ロラン作
「聖ウルスラの船出」
ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵

添付8:聖ゲレオン聖堂

前回のロッホナー作三幅祭壇画「東方三博士の礼拝」について 左翼は聖女ウルスラとその侍女たちで、右翼は聖ゲレオンと軍団兵士たち と書きましたが、これらの聖人たちの説明をしていませんでした。

聖女ウルスラはケルン発祥の伝説上の人物で、5世紀のイギリス一地方の王女。 才色兼備でキリスト教を信仰していましたが、異教徒の王子から求婚されます。 彼女は三つの条件を出して結婚を承諾しました。

それは、新郎がキリスト教に改宗すること、 ウルスラのために一万一千人の処女を集めること、 そして結婚前にウルスラが彼女たちを引き連れてローマへ巡礼に出ることでした。

王子はこれを承諾。ウルスラは処女たちを伴ってローマに赴き, 帰途ケルンでフン族に襲われるのです。処女らは殺され, ウルスラも胸に矢を受けて殉教します。

この伝説は9世紀にケルンで創作されたようですが、広く信じられ ウルスラはカトリック教会の聖人となっています。 もっとも1969年、教皇パウロ6世は、歴史的実在性の低い聖人たちを聖人暦から 除外しましたが、聖女ウルスラもその除外リストに入っています。

一万一千人の処女というのも、最初は2人だったものがローマ数字でⅡと 書かれたものを11人とし、後に翻訳の誤りで、千が追加されたのだとか。

それにしてもこの伝説は深く人々の心に残ったようで、コロンブスは ヴァージン諸島を、マゼランは処女岬を聖女ウルスラに基づき命名していますし、 ケルンには聖ウルスラ教会が、日本にも聖ウルスラ学院があります。

この伝説に関わる芸術作品も沢山ありますが、今回はベルギー七大秘宝の一つ、 メムリンク作「聖ウルスラの聖遺物箱」を採り上げましょう。

屋根を含む箱の周囲全面を聖ウルスラ関連の絵画で埋め尽くした聖遺物箱です。

作者のハンス・メムリンクは1430年頃ドイツ、フランクフルト近郊の生まれで、 ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンのもとで修業し、 1465年にベルギーのブリュージュの市民権を取り、そこを活躍の場としました。

フランドル絵画の伝統である細密描写と温和な甘美性でウェイデン譲りの 宗教画や肖像画を多く手がけました。

この聖遺物箱でのメムリンクの描いた色の鮮やかさ、背景の景色のクリアな正確さ、 登場人物たちの個性の描き分けは、この絵の描かれた1489年という時代を考えると 感嘆させられるのでした。

この宝物があるのがベルギー、ブリュージュにある「メムリンク美術館」。

今ではブリュージュはブルッヘと表記されるようですが、どうも馴染み難い。 アントワープもアントウェルペンと、ベルギーの都市名は昔の英語読みから オランダ語読みに変わっており、旧仮名遣いから新仮名遣いに変わったような 違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

美術館は12世紀に造られた聖ヨハネ施療院の建物を利用していますが、 9割方のスペースが施療院の説明や、施療院で使用された道具類、 観る価値の乏しい絵画類に使われ、メムリンクの作品には1割も割かれて いないのでした。

クロード・ロラン作の「聖ウルスラの船出」も添付します。

なお、聖ゲレオンは304年頃に殉教したとされる歴史上の人物で、 ケルン在の兵士でしたが、軍団の兵士たちと共に、神は皇帝の上位に位置すると 主張したため、皇帝の命により斬首されたといわれます。

ケルンには612年創設、1227年再建のロマネスク様式の聖ゲレオン聖堂があります。