美術館訪問記 -388 ケルン大聖堂

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ケルン大聖堂遠景         写真:GFDL

添付2:ケルン大聖堂ファサード      写真:GFDL

添付3:ケルン大聖堂ファサードの彫刻

添付4:バイエルン窓のステンドグラスの一つ
「4人の預言者」

添付5:シュテファン・ロッホナー作三幅祭壇画
「東方三博士の礼拝」

添付6:シュテファン・ロッホナー作三幅祭壇画中央部

添付7:「東方三博士の聖遺物箱」1190年作 写真:GFDL

添付8:「ゲロの十字架」

前回ケルン派を代表するシュテファン・ロッホナーを初めて採り上げましたが ケルン派の画家は、「聖女ヴェロニカ」の親方や「聖ウルスラ伝説」の親方などと 彼らの残した作品名で呼ばれ、15世紀以前の多くの画家がそうであったように 画家名が特定されていません。

前にも触れましたがデューラーが登場するまではドイツでは画家は職人と見做され、 大工、左官、庭師、陶工、家具職人などと同じく 作品に署名することはなく、名前は残っていないのが普通です。

ではなぜロッホナーだけが特定されたのか。

アルブレヒト・デューラーは詳細な日記を残しており、1520年ケルンに滞在した折、 「ケルンのシュテファン親方の祭壇画を観るために5ヴァイスペニッヒ支払う」 と書き残しているのです。

当時、開閉式の祭壇画は通常閉じられており、特別に開扉してもらうためには、 小銭を支払う必要があったのです。「フランダースの犬」に書かれたように 後世になっても、ルーベンスの祭壇画はお金を払わねば観られなかった。

19世紀に入って、忘却されていた15世紀以前の画家たちを特定する活動の中で、 この記述と他に残された記録の照合により、 シュテファン・ロッホナーの名前が浮かび上がって来たのでした。

彼の記録は僅かにしか残っていないのですが、1410年頃ドイツ南西部に生まれ フランドルで修業後、急速に名前を挙げ1442年にはケルンで市議会の仕事を受注。 舞い込む仕事で裕福になったのでしょう、ケルン周辺の幾つかの不動産を購入した 記録を残し、1451年にペストで死亡しています。

1440年頃には、ケルンは、フランドルとザクセン間の物流を制御、課税し、 神聖ローマ帝国中、最大、最裕福の都市となっており、 神聖ローマ帝国における経済、宗教、芸術の中心地となっていたのでした。

デューラーの日記にある「シュテファン親方の祭壇画」が残っているのが 「ケルン大聖堂」。正式には「聖ペトロとマリア大聖堂」。

高さ157m、奥行き145m、幅86mの世界最大のゴシック様式建築。

現在の大聖堂は3代目で初代の完成は4世紀。 3代目は2代目が焼失した1248年に建設が始まり、途中資金難による中断を経て 最終的に完成したのは1880年。実に632年もかかっているのです。

その壮大さは圧倒的であり、ゴシックのこの迫力に並ぶのはドイツのウルムと スペインのトレドにある大聖堂くらいのものでしょうか。

大聖堂前の広場がそれほど大きくないこともあり、 ファサードの全容を撮影するのは私のカメラでは無理でした。

ファサードは数多くの彫刻で飾られており、入口に並ぶ大きな像のほとんどは 1872年から1880年にかけてペーター・ファックスにより作られたもの。

中に入ると身廊の高さは43.5mもあり、高大な空間が広がっています。 周囲のステンドグラスの総面積は1万平方メートルに達するのだとか。

交差廊手前右側(南側)にある5枚の色鮮やかなステンドグラスは バイエルン王ルートヴィヒ1世の奉納でバイエルン窓と呼ばれています。

交差廊を過ぎた右手にある聖母マリア礼拝堂に目当てのロッホナー作の 三幅祭壇画「東方三博士の礼拝」があります。 中央部分の3人の博士たち は冠を戴くマリアの左右と右奥に座しています。

この三博士はケルンにとって特別の存在です。なぜなら、1162年、ケルン大司教に 神聖ローマ帝国皇帝がミラノから奪って来た三博士の聖遺物が与えられ、 ケルンの大聖堂に安置されたからです。

この聖遺物があるためにケルン大聖堂は特別な存在として 多くの巡礼者を迎えて来ているのです。 なお後世この聖遺物の一部はミラノのサンテウストルジョ聖堂に返却されています。

両翼には、初期キリスト教時代にケルンで殉教した聖者達が描かれています。 左翼は聖女ウルスラとその侍女たちで、右翼は聖ゲレオンと軍団兵士たちです。

中央祭壇の裏手には黄金に輝く「東方三博士の聖遺物箱」が置かれています。 この中に三博士の聖遺物が納められていると信じられています。

聖母マリア礼拝堂の反対側の左手、十字架礼拝堂には、970年作という、 現在に残る中世初期の彫刻としては最古という「ゲロの十字架」がありました。

これは神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世の友人であり、外交官を務めた ゲロ大司教が作らせたもので、その後のヨーロッパのキリスト像の原型になった 貴重な作品です。