美術館訪問記-373 ヴィ―スバーデン博物館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヴィ―スバーデン博物館正面

添付2:ヴィ―スバーデン博物館内部

添付3:ヴィ―スバーデン博物館内部

添付4:ヤウレンスキー作
「山高帽を被った自画像」1904年

添付5:ヤウレンスキー作
「ニキータ」1910年

添付6:ヤウレンスキー作
「自画像」1912年

添付7:ヤウレンスキー作
「救世主の顔」1921年
東京国立近代美術館蔵

添付8:マリアンネ・フォン・ヴェレフキン作
「自画像」1910年
レンバッハ・ハウス美術館蔵

添付9:カール・シュピッツヴェーク作
「昆虫採集者」

前回名前を挙げたヤウレンスキーやマリアンネ・フォン・ヴェレフキン、 エルマ・ボッシについては、まだ説明していませんでした。

「青騎士」のメンバーの一人であったアレクセイ・ヤウレンスキーは1865年、 ロシアで生まれ、貧乏なロシア帝国士官でしたが、幸運とも言える運命の出会いで 裕福な男爵令嬢マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860年ロシア生まれ)に 絵画の指導を受け、経済的な援助も受けることになります。

ヴェレフキンは当時、ロシアで女流芸術家としてかなりの成功を収めており、 「ロシアのレンブラント」と呼ばれていました。ヤウレンスキーに惹かれ、 彼の潜在的能力を察知した彼女は、彼を一流の画家に育てる決心をします。

二人は1896年にミュンヘンに画業修業へ赴きます。

最初は新印象派やゴッホの画風にどっぷりと浸かっていた二人でしたが、 1908年にカンディンスキーとミュンターと共にムルナウでひと夏を過ごし、 相互に影響しあって、ヤウレンスキーは独自の画風を切り開いていくのです。

特に、人間の「頭部」をモティーフにして描き続けた後年の一連のシリーズは よく知られており、世界各地の美術館で見かけます。

二人が根回しして、1909年にカンディンスキーを会長として ミュンヘンで設立したミュンヘン新芸術家協会やその後の青騎士にも参加して、 生涯旺盛に制作に取り組んだヤウレンスキーでしたが、女癖は悪かった。

ヴェレフキンがミュンヘンに同伴したメイドのヘレーネに、手をつけて、 子供を産ませてしまい、やがて二人は結婚。ロシア革命で財産を失った ヴェレフキンは一人スイスで貧困のうちに1938年、生を終えます。

1875年クロアチア生まれのエルマ・ボッシは、ミュンヘンに画家修業に出、 1908年にはヤウレンスキーら4人とムルナウで一緒に過ごしており、 後にカンディンスキーとミュンターの住む家に招かれたりしています。

彼女はミュンヘン新芸術家協会にも参加していますが、画家としては それほど評価されることなく、1952年イタリアで没します。

ヤウレンスキーは1921年からヘレーネと息子と共にドイツ、フランクフルトの 西隣の町、ヴィ―スバーデンに居を構え、1941年、世を去ります。

そこにある「ヴィ―スバーデン博物館」はナッソウ地方古代文化遺産コレクション、 美術コレクション、自然科学コレクションの3部門からなります。

いかにもドイツ建築らしいガッシリとした4階建ての建物で、 内部ホールが4階天井まで吹き抜けになっており、8角に切り抜かれた 天井窓から自然光が入って来ます。

8角の壁の所々は透明ガラスが入っていますが、 それ以外の壁は金地にモザイクという凝った造りで、 所蔵品の近現代絵画とは対照の妙があります。

ここは68点の油彩画という、第212回で紹介したノートン・サイモン美術館の 91点に次ぐ、世界第2のヤウレンスキー作品の所蔵量を誇っており、 我々が訪れた時は54点の油彩画が展示されていました。

他にはキルヒナー、ノルデ、パウラ・モーダーゾーン=ベッカー、ベックマン、 カール・シュピッツヴェークなどのドイツ人画家の作品がありました。