美術館訪問記-372 ミュンター・ハウス

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ミュンター・ハウス

添付2:ミュンター・ハウスの庭

添付3:ミュンターが装飾した彼女の寝室

添付4:カンディンスキーが装飾した階段の手摺

添付5:ミュンター作
「ムルナウの室内」1910年

添付6:ミュンター作
「夕食後のカンディンスキーとエルマ・ボッシ」1912年

添付7:ミュンター作
「ヨハネス・アイヒナーの肖像」1930年

添付8:ミュンター作
「自画像」1934年

添付9:カンディンスキー作のガラス絵が飾られた食堂

フランツ・マルク美術館から西へ20㎞近く行ったムルナウの町に、マルクと共に 「青騎士」で活躍したカンディンスキーとガブリエレ・ミュンターが暮らした 「ミュンター・ハウス」があります。

ガブリエレ・ミュンターは米国から逆移民してきたドイツ人貿易商の第4子として、 1877年にベルリンで生まれ、ドイツ中西部の町で育ちます。

早世した裕福だった両親からの遺産を元手に、親族を頼って米国に2年間も外遊し、 画家を志してミュンヘンへ行き、当時ロシアから画家修業に来て画塾を開いていた カンディンスキーの下で学び始めます。1902年のことでした。

カンディンスキーはそのとき35才。法学教授の職をけり、妻アンナと一緒に 画家を目指してドイツに来た彼は、ミュンターとわりない仲になってしまいます。

妻と別居した彼はミュンターとヨーロッパを画家修業の旅で周った後、 ミュンヘンに落ち着き、1909年、ミュンターは夏のアトリエとして、 アルプス近くの町ムルナウに一軒家を購入します。 ムルナウの人たちはこの家を「ロシア人の家」と呼びました。

ヤウレンスキーやマリアンネ・フォン・ヴェレフキン、フランツ・マルク、 アウグスト・マッケ、クレー、エルマ・ボッシなどが度々滞在し、 1911年秋には「青騎士」の会合もここで開催されました。

ミュンターが理論家のカンディンスキーを師として尊敬していた間は うまくいっていた二人の関係は、ミュンターが画家としての腕を上げ、 自己主張を始めるようになると、怪しくなって来ます。

まだミュンターと結婚していなかったカンディンスキーは、第一次大戦の勃発を 機に、ドイツの敵国人になったとして一人でモスクワに戻ってしまうのです。

数年後、彼がモスクワでロシア人女性と再婚し、子供を設けたことを知った ミュンターは落ち込み、絵筆も握れない月日が続きました。

彼女が絵を再び描くことができたのは、1927年に知り合った哲学者で美術史家の ヨハネス・アイヒナーによるところが大きい。 彼は10才年上の恋人ミュンターを勇気づけ、生活管理の術を教え、 ヒトラーの退廃芸術追放から彼女と作品を守ったのでした。

ムルナウで二人と友人たちが描き残した大量の作品を無事に保管できたことで 第141回のレンバッハ・ハウスで述べたように、我々は抽象画の成立する様と、 後世に多大な影響を与えた青騎士の メンバー達の作品群を一望できるのです。

「ミュンターとの日々は私の頂点だった」と カンディンスキーは後に告白しています。

ミュンターが、夫になったヨハネス・アイヒナーの死を看取り、 1962年に亡くなるまで住んだムルナウの家は、現在美術館になっています。

ミュンターはカンディンスキーと自分の作品を、二人の想いが詰まったこの家で、 人々が味わってくれることを望みながら死んでいったのでした。

ミュンター・ハウスは丘の上の小ぢんまりした家ですが4階まであり、 開放しているのは3階まで。1998年から1999年にかけて、完全修復され、 二人が過ごしていた時の状態を可能な限り復元しているそうです。

受付の親父が日本人かと聞くのでそうだと答えると、 日本語のパンフレットを探して渡してくれました。結構日本人が来ている様です。

ちょっとした広さの庭があり、美しく手入れされていて、数人が散策していました。 訪れたのは、好天の金曜日の午後でしたが、館内もかなりの人が入っていました。

ミュンターとカンディンスキーは共に庭いじりをしたり、独特なデザインで 家具に絵付けをしたりして家を自分たちの好みに合わせて行った様が窺えます。

ミュンターの絵は29点展示されていました。いずれも小品ばかりですが、 カンディンスキーと同棲していた時期の作品はその内9点のみです。

カンディンスキーの手になるガラス絵なども12点展示されていました。