美術館訪問記-371 フランツ・マルク美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:フランツ・マルク美術館前の風景

添付2:フランツ・マルク美術館

添付3:フランツ・マルク作
「戸外で読書する女性」1906年

添付4:フランツ・マルク作
「跳躍する馬」1911年

添付5:フランツ・マルク作
「猫を抱いた女性」1912年

添付6:フランツ・マルク作
「ガゼル」1913年

添付7:マルク作
「戦う形態」1914年
ミュンヘン、モダン・ピナコテーク蔵

添付8:ヤウレンスキー作
「赤いブラウスの女性」

画家の個人美術館を採り上げて来ていた筈の内容が、 ジャン・コクトーを最後に39回も寄り道をしてしまいました。

ヴュルツブルクから南に行くと、オーストリアとの国境近くの町 コッヘル・アム・ゼーに「フランツ・マルク美術館」があります。

美術館下の道路脇に駐車場があり、その反対側に池と林がありました。 その背後にはアルプスの高山があり、空は澄み切って青く、 まさに絵の様な風景でした。坂道を登って美術館へ。

フランツ・マルク(1880-1916)はドイツ、ミュンヘンの生まれ。

父親は風景画家でしたが、マルクは信心深い母親の影響で神学と哲学を学び、 その後、ミュンヘン美術アカデミーに入学。卒業後は何度かパリへ行き、 ゴッホの作品を見て感動し、さらに、ゴーギャンやマティスの作品に刺激されて 自らの方向性を見出していきます。

彼らの作品に触れて「憧れていた魔法の森の中を歩く小鹿のようだ」とその感動を 表し、物質主義・合理主義に走る社会を嫌った彼は、純粋で無垢な存在として 動物を好んで描きました。

1911年、親交のあったカンディンスキーと芸術グループ「青騎士」を結成します。

青騎士は原始美術や民衆芸術を称揚し、抽象化と単純化と色彩の力で、 芸術に精神的価値を吹き込む事を目指し、 純粋な精神的造形としての抽象への道を 開くことになりました。第一次世界大戦の始まった 1914年には自然消滅した 短命な運動でしたが、後世に多大な影響を与えています。

第一次世界大戦が勃発するとマルクは召集され、 ヴェルダンの戦いにおいて36歳の若さで命を落としてしまうのです。

マルクの住んでいたコッヘル・アム・ゼーにフランツ・マルク美術館が 開館したのは、彼の死後70年たった1986年の事でした。

町舎近くにあったこの美術館は手狭で、フランツ・マルクの資産管理人であり、 フランツの妻マリア・マルクの後見人だったオットー・スタングルは この美術館建設の推進者でもありましたが、美術館開館後すぐに、 マルクと青騎士のグループがいかに後世の芸術家たちに影響を与えたかを示す コーナーが必要と考えます。

コレクターでミュンヘンの画廊のオーナーでもあった彼自身のコレクションと、 妻のエッタの父ルドルフ・イーバッハのコレクションを加えた新館を、 2008年現在の場所に開館するに至ったのでした。

ここではマルク絵画の変遷を辿ることができます。

マルクは、動物の眼を通して自然界に存在する霊的なものを描こうとしていたかの ようです。その絵の傾向は具象から徐々に抽象へと移って行きます。

彼の絵画が行きついた最も印象的な絵は ミュンヘンのモダン・ピナコテークで観た「戦いの形態」です。

否応なく巻き込まれていく世界大戦の不気味な胎動を、逃れられない運命として 感じ取っていた彼の心情を、単純化した形態と、純粋化した色彩で描いた 黙示録とでも言うべき、緊張に満ちた傑作です。

フランツ・マルク美術館を訪れた日に目にすることができたのは、 マルクの油彩画14点とグラフィック45点、彫刻1点。

他にはマルクと親交を結んでいたカンディンスキー、マッケ、ヤウレンスキー、 ミュンター、ドロネー、クレー、カンペンドンク、ミューラー、ペックスタイン、 アレクサンダー・カーノルト等の作品がありました。

マルク自身の油彩画は意外と少なかったのですが、個人美術館らしく、 フランツ・マルクへの敬慕の想いに満ちた心地よい美術館でした。