美術館訪問記-364 ヴュルツブルク レジデンツ(司教宮殿)

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ホーフ庭園から見たレジデンツ南側

添付2:レジデンツ玄関の間

添付3:階段の間

添付4:ティエポロ作
「階段の間天井画」

添付5:ティエポロ作
「階段の間天井画中、アポロ神」

添付6:ティエポロ作
「階段の間天井画中、アメリカ部分」

添付7:ティエポロ作
「階段の間天井画中、アジア部分」

添付8:ティエポロ作
「階段の間天井画中、アフリカ部分」

添付9:ティエポロ作
「階段の間天井画中、ヨーロッパ部分」

添付10:ティエポロ作
「階段の間天井画中、ティエポロとドメニコ」

前回ティエポロがドイツのヴュルツブルクへ旅したと書きましたが、 何のためにと思われた方もおられるでしょう。

実はティエポロはヴュルツブルクに世界最大のフレスコ1枚画を残しています。

その絵がある場所は「ヴュルツブルク レジデンツ(司教宮殿)」。

ヨーロッパでも屈指の宮殿で、バロック・ロココ時代のドイツを代表する建築家 バルタザール・ノイマンにより、1720年から1744年にかけて造られました。

ドイツ・バロック建築の最高峰と謳われ、 ナポレオンは「ヨーロッパで最も美しい館」と称え、ハプスブルク家の女帝 マリア・テレジアは「これこそ宮殿の中の宮殿」とこの宮殿を称賛しています。

長さ約167m、高さ21mの中央棟に長さ約92mの両翼塔を備えたコの字型の宮殿の 裏側には綺麗に整えられたホーフ庭園が広がっています。

レジデンツの西側にある広場からレジデンツの正面入り口を入ると、「玄関の間」。 昔は6頭立ての馬車が入ってきていた所で、床には馬が滑らない石が使われ、 天井も高く開放感があり、左手に階段があります。

この階段を上ると、レジデンツ最大の見所、「階段の間」に入ります。

天井までの高さ23mというこの吹き抜けの大空間の天井は、19.0m x 32.6m。 支えとなる柱が一本もないこの天井は、建築当時、強度に関して「設計ミス」や 「絶対に崩れる」などと酷評されました。

耐久性に自信を持つノイマンは天井の下で大砲を打つデモンストレーションを実行。 些かの不安もないことを示しました。第二次世界大戦時、イギリス軍による爆撃で レジデンツは破壊されますが、階段室は崩れずに残り、強度が証明されました。

建物の完成後、天井画を誰に描かせるかが、なかなか決まらず、 ヨーロッパ随一のフレスコ画の名手、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが はるばるヴェネツィアから招聘されたのは1750年12月の事でした。

54歳になっていたティエポロは息子で画家のドメニコとロレンツォを帯同。 最初の契約は比較的狭い「皇帝の間」の天井と壁面を飾るフレスコ画でした。

その出来に満足した館の主は、「階段の間」の大天井をティエポロに任せます。 1752年7月の事で、契約金は15,000ギルダー。 これは大工の棟梁の60年分、建築家のノイマンの13年分の年収に相当したとか。

天井は5mの高低差で湾曲しており、総面積は677㎡。 フレスコ1枚画として有名なシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの 「最後の審判」が164.4㎡ですから、その大きさが想像できるでしょう。

ミケランジェロは約5年間かけて「最後の審判」を描き上げていますが、 ティエポロはこの大作を1753年10月には描き終えています。

息子二人に加え、アシスタントを10人近く雇い、3ないし 4チーム編成で 手際よく作業を進めたと考えられており、ティエポロが、芸術家としての 技量だけでなく、プロジェクト・リーダーとしての才能や、 素早く効率的に仕事を進める能力にも長けていた事がうかがえます。

「太陽神アポロの保護下にある芸術の庇護者たる領主司教への礼讃」と題された この絵には、天空部分の頂点部に太陽神アポロが描かれ、壁から立ち上がりの 部分には当時知られていた四大陸(上部がアメリカ、右部がアジア、 左部がアフリカ、下部がヨーロッパ)が寓話化されて描かれています。

アメリカの部分にはインデアンと鰐の姿が、アジアには象が、アフリカには駱駝が、 ヨーロッパにはレジデンツ建造に貢献した芸術家達の姿が描かれています。 その中には左下隅にティエポロとドメニコの姿もあります。

アジア象は実物を見ていなかったので、耳が逆向きについているのがご愛敬。