美術館訪問記-350 サン・フランチェスコ聖堂

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サン・フランチェスコ聖堂

添付2:サン・フランチェスコ聖堂内部

添付3:サン・フランチェスコ聖堂のステンドグラス1例

添付4:ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「聖マルティナの殉教」

添付5:ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「聖マルティナの殉教」
プリンストン大学美術館蔵

添付6:ピエトロ・ロレンツェッティ作
「キリスト磔刑図」

添付7:アンブロージョ・ロレンツェッティ作
「フランチェスコ会士の殉教」

添付8:アンブロージョ・ロレンツェッティ作
「教皇ボニファティウス8世に誓う聖ルイ」

添付9:シモーネ・マルティーニ作
「ロベール・ダンジューに王冠を授ける聖ルイ」
ナポリ、国立カポディモンテ美術館蔵

シエナに話を戻し、第344回のサン・ベルナルディーノ祈祷堂の隣に 「サン・フランチェスコ聖堂」があります。

13世紀の創建に遡る聖堂で、1913年に完成した赤レンガ造りの 新ゴシック様式のファサードは横幅よりも高さの高いフランシスコ修道会らしい 造りで、前の広場からはシエナの街の眺望が楽しめます。

内壁はシエナ大聖堂のように白と緑の縞模様に塗られています。

大きな美しいステンドグラスが幾つもあって、光がタップリ射し込んでいました。

フランチェスコ派の教会の通例通り,側廊なしの身廊のみの単廊式で, 奥に左右の翼廊があるT字型になっています。

従って側廊の礼拝堂のような形ではなく,身廊の左右の壁面に祭壇があって, それぞれに祭壇画がかかっており、一見すると美術館のような展示にも見えます。

入口近くにピエトロ・ダ・コルトーナの「聖マルティナの殉教」がありました。

聖マルティナはローマに住むクリスチャンでしたが、 ある時異教の偶像に額ずくよう命じられてそれを拒み、無理強いされる度に 偶像や神殿は地震や雷で破壊されていきました。信心を変えるよう 様々な拷問受けましたが、節を曲げず、228年斬首されて殉教しています。

彼女はローマの守護聖人となっています。

この絵の右手上部にいるのがキリスト教徒弾圧を命じたローマ帝国皇帝 セヴェルス・アレクサンダー。

コルトーナは1634年ローマにある聖ルカ・聖マルティナ教会のクリプトで 偶々聖マルティナの遺骨を発見し、時の教皇ウルバン8世は 荒れていた同教会の修復をさせています。

そのためもあってかコルトーナは「聖マルティナの殉教」を幾つか描いたようで 第307回のプリンストン大学美術館でも同主題の絵画を見ました。

続いてピエトロ・ロレンツェッティの「キリスト磔刑図」がありました。

少し色落ちしていますが、赤の背景に白色主体の着色は珍しく インパクトがあります。

3番目の礼拝堂の両壁面にアンブロージョ・ロレンツェッティの 「フランシスコ会士の殉教」と「教皇ボニファティウス8世に誓う聖ルイ」 がありました。

フランシスコ会士の殉教とは、1209年に発足した同会が布教活動を 広めて行く過程で、1220年イベリア半島に宣教に出かけた5人の修道士が 途中のモロッコで同会最初の殉教を遂げた事件です

トゥールーズの聖ルイ(1274-1297)はナポリ王シャルル2世の息子で 父がアラゴン王家の捕虜となった時、その代わりの人質としてアラゴン王家の 領地だったバルセロナに送られ、そこでフランシスコ会修道士に教育を受けます。

1295年兄が亡くなったとき,王位の継承権者になりますが、ローマで教皇に会い、 相続権を放棄し,フランシスコ会の清貧を守ることを誓ったのです。

ルイはトゥールーズの司教に任ぜられ、わが身を顧みず貧者に尽くしますが 熱病にかかり23歳の若さで死亡。

王位を捨てて信仰に殉じた彼は生存中から人気が高く、 死後20年という異例の速さで聖人に列せられました。

かの有名なジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から 489年後だった事からしても、いかに早かったかが判るでしょう。

ルイから王位を譲られた弟のロベール・ダンジューは後に大枚を払って 「ロベール・ダンジューに王冠を授ける聖ルイ」を シモーネ・マルティーニに描かせています。