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美術館訪問記-335 バルベリーニ国立古典絵画館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:バルベリーニ国立古典絵画館外観

添付2:バルベリーニ国立古典絵画館内部

添付3:ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「神の摂理」

添付4:ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「神の摂理」部分図

添付5:ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「神の摂理」部分図

添付6:ピエロ・ディ・コジモ作
「読書するマグダラのマリア」

添付7:ドメニコ・ベッカフーミ作
「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」

添付8:ラファエロ作
「ラ・フォルナリーナ」

添付9:ラファエロ作
「ラ・フォルナリーナ」部分図

前回触れたピエトロ・ダ・コルトーナの最高傑作があるのは イタリア、ローマにある「バルベリーニ国立古典絵画館」。

トレヴィの泉に近いバルベリーニ宮殿は、最終的にベルニーニにより1633年に完成。 細部装飾については彼のライバル、ボッロミーニも携わっており、 スパーダ宮殿と共にローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家が協働した 数少ない例となっています。

1895年から国立古典絵画館として使用されています。 3階建てで2階が美術館、3階はアパートメントとして使用中。

幾つもある部屋の天井には迫力ある天井画が描かれており、それらが見易いように、 部屋の真ん中に寝て見られるよう背もたれのない低いベンチが置いてあります。

特に15m x 25m、高さ15mという大広間に描かれたピエトロ・ダ・コルトーナの 「神の摂理」はその異様とも言える3次元的立体感で彫刻かと見紛うほど。

遠近法と錯視効果を駆使し、絵画と建築装飾の区別がつかないのです。 そればかりか絵画と現実空間との区別もつきません。まさにイルージョン。 とても全てが平面に描かれているとは信じられません。

この大フレスコ画はコルトーナがローマ教皇ウルバヌス8世の依頼で 1633年から1639年にかけて描いたもので、規模の大きさもさることながら、 大胆な構成と、激しい運動感の表現により、バロック絵画の金字塔となっています。

宗教改革はカトリックの側に対抗策を強いることになり、偶像崇拝を否定する プロテスタントに対して、高揚感あるいは宗教的なエクスタシーを 呼び覚ますようなダイナミックな動きのある空間の創造で答えようとしたのです。

ピエトロ・ダ・コルトーナはこの作品で一躍ローマ絵画界の第一人者となりました。

この絵画館はイタリアの国立美術館とあって、品揃えは素晴しく フィリッポ・リッピ、ペルジーノ、ピエロ・ディ・コジモ、ソドマ、ロット、 ティツィアーノ、アンドレア・デル・サルト、ベッカフーミ、ティエポロ、 ブロンズィーノ、ティントレット、エル・グレコ、カラヴァッジョ、 グイド・レーニ、グエルチーノ、ハンス・ホルバインと枚挙に暇がありません。

中でもこの絵画館の顔とも言えるのがラファエロの「ラ・フォルナリーナ」。

フォルナリーナとはイタリア語でパン屋の娘を意味します。 彼女はラファエロの恋人であり、ローマ、トラステベレ地区のパン屋 フランチェスコ・ルーティの娘マルガリータという説があります。

この絵はラファエロの死後、彼のアトリエから発見され、 彼の早すぎた死の前年に描かれたと考えられています。

左腕の腕輪には「ウルビーノのラファエロ」の文字が。

ラファエロは親しかった枢機卿の姪マリアと1514年婚約していますが、 結婚しないまま彼女は1520年、病死しています。

ラファエロは生涯妻帯はしていませんが、多くの女性関係があったと 推測されており、「芸術家列伝」の中でヴァザーリは、 37歳という若さで死んだのも度を越した放蕩が原因であると書いています。

「そんなラファエロを周りは大目に見てやるべきではなかったのだ」と 天才の夭折を惜しむヴァザーリの筆致は怒りを隠しません。

またヴァザーリは、ラファエロは枢機卿になる野望を持っていたので、 結婚しようとしなかったとも書いています。 枢機卿は建前上、妻帯者はなれなかったのです。

ラファエロはローマ教皇の近侍の地位についており、 ローマ教皇黄金拍車勲章を授与され、ナイト爵位も所有していました。 ラファエロを全面的に支持していたローマ教皇レオ10世から そのような仄めかしがあったのではないかとも言われます。

いずれにしても全ては推測で何ら確証はないようです。 案外ラファエロは強いられた婚約の陰で、 一人の女性を熱愛していたのかもしれません。

マルガリータ・ルーティはラファエロの死の4か月後、トラステベレ地区の 修道院に入ったという記録が古文書に残っているそうです。