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美術館訪問記-331 トマ=アンリ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:トマ=アンリ美術館

添付2:トマ=アンリ美術館内部

添付3:ジャン=フランソワ・ミレー作
「自画像」1841年

添付4:ジャン=フランソワ・ミレー作
「ポーリーヌ・オノの肖像」1841年

添付5:ミレー作
「種をまく人」
左が山梨県立美術館、右がボストン美術館蔵

添付6:ジャック=ルイ・ダヴィッド作
「男性習作」

添付7:フラ・アンジェリコ作
「聖アウグスティヌスの回心」

ジャン・コクトー関連が6回続きました。 少し気分を変えて個人美術館ではないのですが、日本人の好きな ジャン=フランソワ・ミレーの作品が沢山観られる美術館を紹介しましょう。

それがフランス、ノルマンディー、イギリス海峡に面する港町、 シェルブールにある「トマ=アンリ美術館」。

シェルブールと聞くと、第17回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した 1964年のフランス映画「シェルブールの雨傘」を思い起こす人も多いでしょう。

全編音楽のみで地の台詞が一切ないミュージカル映画で、それまでにない 画期的な映画でしたし、ミシェル・ルグランの音楽も世界中でヒットしました。

この美術館は、画家でありコレクターだったトマ=アンリが 自分の160余の収蔵品を基に1835年に開館。

後にミレーの作品群が加わり、 現在では300点を超える絵画・彫刻のコレクションとなっています。

ジャン=フランソワ・ミレーの油彩画を27点も有する美術館は 世界でも珍しいですが、その割にミレー好きの日本人には知られていません。

ジャン=フランソワ・ミレーは1814年シェルブール近郊の海辺の村の農家の生まれ。

19歳でシェルブールへ絵画修行に出た彼は、トマ=アンリ美術館に 展示されている作品を模写することで、構図の捉え方など古典的な技法を学び、 卓越したデッサン力を養いました。

1837年、シェルブール市の奨学金を得てパリへ出ます

ローマ賞コンクールへの2度の落選、 シェルブール市からの奨学金の打ち切り等を経て、ミレーはシェルブールに戻り、 肖像画家として生計を立てようと試みます。

1841年、仕立屋の娘ポーリーヌ・オノと結婚し、パリに出て 医師、海軍将校、ブルジョワなどの有力者の肖像画を手がける一方で、 妻やその家族を描いた肖像画を多く手がけました。

病弱であったポーリーヌは、結婚して3年足らずで結核で死亡。 その後、彼女の遺族によって大切に保管されていたミレーの初期作品は、 トマ=アンリ美術館にまとめて寄贈されました。

シェルブールに戻った彼は家政婦カトリーヌと同棲を始め、彼女と再びパリに出、 1849年政府買い上げの支払いがあり、パリにコレラが蔓延していた事もあって フォンテーヌブローの森外れのバルビゾン村に移住。

ミレーは農民画家として生きていく決意を固めます。 その裏には1848年、王政が倒された2月革命により民衆や労働者のための絵画が 高く評価されるようになった事もあるでしょう。

1850年パリのサロンに出したミレーの「種をまく人」は、働く農民の姿を 描いたものとして急進的な批評家たちの絶賛を浴びます。

この作品が3人の手を経た後、日本の山梨県立美術館の所有に納まったのは ご存知の方も多いことでしょう。

ただほとんど同じ構図の「種をまく人」がボストン美術館にも所蔵されており、 両館ともその所蔵品がサロン出展作と主張しており、結論は出ていません。 どちらもミレーの真作であることは間違いないようです。

以後、「晩鐘」や「落穂拾い」などの代表作を発表。 1868年にはレジオン・ドヌール勲章を受章。1875年病死しました。

トマ=アンリ美術館にはミレーの油彩画27点、版画9点、素描4点以外にも フィリッピーノ・リッピ、バッサーノ、ヨルダーンス、プッサン、ムリーリョ、 シャンパーニュ、シモン・ヴーエ、グルーズ、ジャック=ルイ・ダヴィッド、 テオドール・ルソー、ブーダン、シニャック等があり見応え十分。

中でもフラ・アンジェリコの「聖アウグスティヌスの回心」が小品ながら、 その風景描写と色彩が素晴らしく、印象に残りました。