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美術館訪問記-326 要塞美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ジャン・コクトー 1923年撮影

添付2:ジャン・マレー 1947年撮影

添付3:横から見た要塞美術館

添付4:要塞美術館正面

添付5:要塞美術館入口

添付7:ジャン・コクトーの石碑

ジャン・コクトーは1889年、齢の離れた姉兄に次ぐ末っ子として パリの近郊の弁護士の家に生まれます。 絵を描く趣味のあった父親はコクトーが8歳の時にピストル自殺。

母親とその父親で美術収集家の祖父の下で文学少年として育ちます。 文学に傾倒するあまり学業はおろそかになっていた彼は大学受験に失敗。 進学を断念した彼は20歳で最初の詩集「アラジンのランプ」を自費出版します。

才気活発、ダンディなコクトーはパリの社交界でも話題の人物となり、 マルセル・プルースト、アンドレ・ジード、ピカソ、モディリアーニ、 キスリング、ココ・シャネル、ストラヴィンスキーなど 芸術界の著名人達と交流を深めて行きます。

1917年にはエリック・サティが音楽を、ピカソが舞台美術を担当したバレエ 「パレード」のシナリオを書いたりもします。

特に1923年、弱冠20歳で出版した「肉体の悪魔」でベストセラー作家になった 早熟の天才レイモン・ラディゲとは15歳の時に会って以来、恋人関係にあり、 彼の20歳での突然の病死に絶望したコクトーは、 アヘンに溺れるるようになってしまいます。

コクトーは自他ともに認めるバイセクシャルでした。 ほとんどのコクトー映画作品に主演した俳優ジャン・マレーとは、 1937年知り合ってから死ぬまで20年間以上愛人関係だったとか。

ジャン・マレーは心底コクトーを尊敬していたようで、 コクトーの死後書いた「思考を絶したジャン・コクトー」や自身の伝記に その思いを吐露しています。

ラティゲの死から6年の歳月を経た1929年、 コクトーはアヘン中毒の治療を決意し、その解毒治療の最中のわずか17日間で、 後に映画化される「恐るべき子供たち」を書き上げます。

1936年、日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感銘し、この時観た鏡獅子が、 後の「美女と野獣」のメイクに影響したという説もあります。

1945年、彼の代表的映画作品「美女と野獣」を監督し、大成功を収めます。 映画界でも有名になったコクトーは、カンヌ映画祭の審査委員長を3度務めました。

マントンで結婚の間を完成した後、70歳を過ぎたコクトーは マントンの海岸に接した堤防の上にある廃墟同然の17世紀の石造りの砦を、 自身のための美術館にしたいとマントン市長に申し出ます。

コクトー自ら修復と装飾の指揮を執り、自分の理想を実現しようとしたのですが、 道半ばで1963年10月心臓発作で死亡。 親友の歌手エディット・ピアフの死を知ったショックと言われます。 コクトーとピアフは同じ日に死亡しています。

コクトーの死の2年後の1965年、「要塞美術館」は開館します。

2階建てで1階部分のファサードは3つのアーチからなり、 それぞれのアーチ奥の壁に、地中海の波に洗われて丸くなった 白、黒、赤茶色の石を敷き詰めたコクトー デザインのモザイク画があります。

中央のアーチ部分にある入口を入ると受付があり、その奥に2階への階段が。 この踊り場にジャン・コクトー美術館前の広場にある大トカゲの原型になった 不死と再生の象徴であるトカゲのモザイクがありました。

2階の石壁にはコクトーの写真や晩年のデッサンが展示され、 幾つかある小部屋にコクトー作の陶芸品が展示してありました。 展示室は撮影禁止。

コクトーの魅力を再認識して外に出ると、建物脇に石碑があり、 「私は、あなた方とともにいる(Je reste avec vous.)」という一文が 刻まれていました。

「人生は短く、芸術は長し」と言いますが、 死せる詩人の魂が今なおこの美術館に力強く息づいているのは確かなようです。

(添付6:ジャン・コクトー作モザイクは著作権上の理由により割愛しました。
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