戻る

美術館訪問記-31 エル・エスコリアル修道院

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

添付1:「エル・エスコリアル修道院」外観

添付2:グレコ作
「聖マウリシオの殉教」

添付3:ミシェル・コクシー作
「十字架降架」

添添付4:ティツィアーノ作
「聖ラウレンティウスの殉教」

添付5:バシリカ中央祭壇

添付6:王の中庭とバシリカ

スペイン、マドリードの北西50kmほどの所に高級別荘の建ち並ぶ エル・エスコリアルの町があります。

エル・エスコリアルには、フェリペ2世が聖キンティーンの戦い(1557年)の勝利を 感謝して聖ラウレンティウスに捧げた修道院を附属させた、 王家の墳墓であり王宮である、「エル・エスコリアル修道院」があります。

1563年から着工し1584年に完成しました。 僅か21年で完成したとは信じられないような巨大な建物で、 幅161m、奥行き206mもあります。

聖ラウレンティウスが格子型の網で焼かれて殉教したことから、 建物は全体として焼き網を逆さまにした形の格子型で構成された 堅固な造りになっています。

教会は四角い平面にヴァチカンの聖ピエトロ教会に似せた、 高さ95mの丸屋根を持ち、合わせて43の祭壇と礼拝堂があります。

北側の中央入口から美術館に入ると直ぐ、 グレコの「聖マウリシオの殉教」がありました。 4mはある天井まで届く大作。 この絵は3場面から構成されていますが、左下隅に描かれた 聖マウリシオの頭部と切断された死体がむごたらしく、 フェリペ2世に好まれず、グレコは宮廷画家になりそこねたといいます。

しかしその部分は全体図の1/30以下で、他の部分は他の画家とは明らかに異なる グレコの技量が窺える優れたものです。 ここにある膨大なコレクションから見てもフェリペ2世に 審美眼がなかったとは思えず、偶々ご機嫌麗しからずの日に当たったのでしょうか。

その後に続く絵画室にはグレコと異なり、フェリペ2世のお気に入りだった フランドルの画家、ミシェル・コクシーが9点ありました。 彼がロヒール・ファン・デル・ウェイデンの名作「十字架降架」を寸分たがわず コピーした図は、最初見た時は本物かと疑ったほど良くできています。

ミシェル・コクシー(1499-1592)はベルギー、メヘレンの生まれで、 マビューズ、クエンティ・マセイスと並ぶ16世紀フランドル絵画の雄、 ベルナールト・ファン・オルレイの下で学び、師と共にイタリアへ行き、 マニエリスムを習得し、ローマにも作品を残しています。

第29回のルカ・ジョルダーノ同様器用な画家で、ウェイデンだけでなく、 ラファエロそっくりの絵も描き、「フランドルのラファエロ」と呼ばれました。 師の後を継いで当時スペインの支配下にあったネーデルランド総督の宮廷画家 となり、スペイン王家からの注文も数多くこなしています。

本物のウェイデンも1点。ボッシュやマセイスもあります。 ティツィアーノ、ティントレット、バッサーノ、ヴェロネーゼ、 パルマ・イル・ヴェッキオ、グエルチーノ、ルカ・ジョルダーノ等の イタリア人画家の作品が多く、特にルカ・ジョルダーノは大天井画2点を含め、 13点を数えました。

勿論スペイン人画家達の作品もあります。 グレコ、リベーラ、スルバラン、ヴェラスケス、アロンソ・カーノ等。

教会内陣の後には、アウストリア家の宮殿があり、スペイン王国が勝利した 戦いの場面を描いたフレスコ画で飾られた「戦いの間」は見物でした。 全長55mの細長い部屋の一面の壁全部に渡って明るい色調で描かれています。

ティツィアーノの「聖ラウレンティウスの殉教」がありました。 ヴェネツィアのイエズス教会のティツィアーノの同一主題ものは 暗い茶系統のみの着色で、図柄がよく判らなかったのですが、 こちらは8年後に描かれ、構図は同じで、色彩、表情がより豊かになっていました。

バシリカ(一般の教会より上位の教会として扱われる教会の建物)は巨大で 中央祭壇は例のない構成をしています。 内部は5月末というのに底冷えのする寒さで、看守は真冬の格好をしていました。 ここを冬に訪れるのはお勧めできません。 実際この王宮と修道院の住人達には肺炎患者が多かったといいます。

教会の中では王室小礼拝堂と王室葬儀場, 跪いて祈るカルロス5世家族の群像とフェリペ2世家族の群像が注目です。 王室礼拝堂の下は王室霊廟になっていて、アウストリア家及びブルボン家の 王達が眠る26の黒大理石の棺の他、親王たちの墓、 それに皇太子や親王、国王に即位した子を持たない王妃らの墓があります。

外に出ると「王の中庭」と呼ばれる広いパティオが真夏のような強い陽光の下にまぶしく光り輝いていました。

注:

聖ラウレンティウス:スペイン出身の僧。歴史上の人物。225-258年。 その博識を認めた教皇シクストゥス2世がローマに連れて行き、助祭にした。 教皇シクストゥス2世がローマ皇帝の命により殉教させられた時の指示を守り、 教会の財産をすべて貧者に分け与えた。 皇帝に教会の財産を供出するように迫られた時、貧者を集めて「これが教会の 財宝なのだ」と答えたために、焼き網で焼かれる拷問を受けて殉教した。 数分後に、兵士に向かって「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」 と伝えたといわれ、 また、その殉教のさまに感銘した多くの人々が、改宗したともいわれる。

美術館訪問記 No.32 はこちら

戻る