イェール大学美術館の道を隔てた向かい側には 「イェール英国芸術センター」があります。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの寄贈者アンドリュー・メロンの息子で イェール大学卒業生のポール・メロンが1966年に寄贈した約2000点の絵画と 200点余りの彫刻、20000点の素描・水彩、30000点のPrint、35000点の 貴重な書籍を所蔵。
英国以外では世界最大の英国芸術の所蔵量を誇っています。
ポール・メロンはメロン銀行の資産を継承した一人で、 1957年フォーブス誌が最初のアメリカの富豪リストを作成した時、 他の3人のメロンの子孫と共に、トップ8の一人に入っていました。
芸術センター建設資金とその後の運営経費も全額寄付しています。 それもあってか米国の私立美術館には珍しくイェール大学の美術館は入場無料。
建物は最後の巨匠と呼ばれる建築家ルイス・カーンの遺作で1977年の開館。 カーンは完成した姿を見ることなく1974年に死亡。
ここにはカーンの処女作と遺作が向かい合って建っている事になります。
4階建ての鉄筋コンクリートで外壁は全面ガラス張り。 1階にはお店が入るためのスペースが確保されています。 こういった商業施設用スペースを最初から組み込んでデザインされた美術館は ここがアメリカで最初だったそうです。
2階から4階まで吹き抜けの展示室のあるホールの一角に打ちっぱなしの 鉄筋コンクリートの円柱があるのはイェール大学美術館と同じです。
しかし、外見は同じ円柱でもイェール大学美術館の方は内部のヴォイド(空間)は 三角であるのに、こちらは四角になっていました。
天井は同じく打ちっぱなしの格子天井で 自然光をうまく取り入れられるようになっています。
1階の受付を通り、エレベーターで4階へ。順に降りながら各階を観て行きます。
英国らしく肖像画が多いのですが、ポール・メロンが最初に購入した英国絵画で 本人が一番好きだったというジョージ・スタッブスの絵は20点展示されていました。
スタッブス(1724-1806)はなめし皮業者の子としてリバプールに生まれ、 ほとんど独学で絵画を学び、肖像画を描きながら病院で解剖学の勉強をし、 農家を借りて18ヶ月馬の解剖に没頭します。
1759年ロンドンに戻るとリッチモンド公チャールズ・レノックスを始めとする 貴族から馬の絵の注文を多く受けるようになり、1766年には「馬の解剖学」という 著作を発表し、馬を主とする動物画家として独自の地位を占める画家となります。
狩猟と競馬を趣味とする欧米の上流階級の家を飾るに不可欠の1枚となったのです。
ポール・メロンは競馬のオーナーであり牧場も持っていたので、 特にスタッブスに惹かれたのでしょう。
ジョン・コンスタブルは58点も所蔵しています。雲の習作の連作がありました。
英国でコンスタブルと並び称せられる風景画家、ターナーは15点所蔵しています。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)はJ.M.W.ターナーと よく表示されていますが、ロンドンの床屋の息子に生まれ、幼少時から画才を発揮。 14歳でロイヤル・アカデミー付属学校に異例の入学を許される程でした。
同じころ水彩画家トーマス・モールトンのアトリエで水彩画を学んでいます。
ターナーはモールトンを後に私の本当の先生と呼んでいますが、 ターナーは水彩画家としても比類ない大家となり、水をたっぷり含ませて絵具を 伸ばしていく水彩画の技法と、透明感を湛えたその色彩からヒントを得て、 油彩画のあり方を変革して行くのです。
大気感を湛えた独特な風景表現は晩年に行くに連れ、 鮮やかな色彩と抽象的な作風へと変貌して行きます。
彼の変革した風景画はクロード・モネなど印象派の画家やその様式の形成に 多大な影響を与えています。
53歳でロイヤル・アカデミー正会員になったコンスタブルに比べ、27歳で正会員と なり、32歳でロイヤル・アカデミーの教授になるなど早くから認められた大家です。
ターナーは生涯を通じて絶えることなく旅行を繰り返しており、国内、海外を 旅して膨大な風景のスケッチを残しています。
また彼が影響を受けたクロード・ロランの「真実の書」を参考に 「研鑚の書」として歴史画、山系画、田園画、海洋画、建築画などの版画を 教授就任の1807年から1826年まで19年間出版し続けてもいます。
ターナーは自作品の大半を手元に置いており、死亡時に国家に遺贈したので、 ロンドンのテート・ブリテンには彼の油彩、水彩、デッサン、スケッチ帳等 2万点もの作品があり、幾つかの重要な作品はナショナル・ギャラリーにも 展示されています。
このセンターにはイタリアの風景画家カナレットの作品が7点あり、 英国芸術センターに何故イタリア人画家がと一瞬いぶかしく思ったのですが、 彼は英国で余りにポピュラーだったため、1746年渡英し、1755年まで居て 英国の風景画を多く残しているのでした。