美術館訪問記-309 イェール英国芸術センター

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:イェール英国芸術センター外観

添付2:イェール英国芸術センター内部

添付3:イェール英国芸術センター円筒階段内部

添付4:ジョージ・スタッブス作
「かぼちゃを与える馬丁の子」

添付5:J.M.W.ターナー作
「アベルノ湖:アエネーイスとクマエの巫女」

添付6:J.M.W.ターナー作
「ノーサンバーランドの海岸の救難作業員達」

添付7:J.M.W.ターナー作
「嵐の海の砕ける波」

添付8:カナレット作
「セント・ポール大聖堂」

イェール大学美術館の道を隔てた向かい側には 「イェール英国芸術センター」があります。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーの寄贈者アンドリュー・メロンの息子で イェール大学卒業生のポール・メロンが1966年に寄贈した約2000点の絵画と 200点余りの彫刻、20000点の素描・水彩、30000点のPrint、35000点の 貴重な書籍を所蔵。

英国以外では世界最大の英国芸術の所蔵量を誇っています。

ポール・メロンはメロン銀行の資産を継承した一人で、 1957年フォーブス誌が最初のアメリカの富豪リストを作成した時、 他の3人のメロンの子孫と共に、トップ8の一人に入っていました。

芸術センター建設資金とその後の運営経費も全額寄付しています。 それもあってか米国の私立美術館には珍しくイェール大学の美術館は入場無料。

建物は最後の巨匠と呼ばれる建築家ルイス・カーンの遺作で1977年の開館。 カーンは完成した姿を見ることなく1974年に死亡。

ここにはカーンの処女作と遺作が向かい合って建っている事になります。

4階建ての鉄筋コンクリートで外壁は全面ガラス張り。 1階にはお店が入るためのスペースが確保されています。 こういった商業施設用スペースを最初から組み込んでデザインされた美術館は ここがアメリカで最初だったそうです。

2階から4階まで吹き抜けの展示室のあるホールの一角に打ちっぱなしの 鉄筋コンクリートの円柱があるのはイェール大学美術館と同じです。

しかし、外見は同じ円柱でもイェール大学美術館の方は内部のヴォイド(空間)は 三角であるのに、こちらは四角になっていました。

天井は同じく打ちっぱなしの格子天井で 自然光をうまく取り入れられるようになっています。

1階の受付を通り、エレベーターで4階へ。順に降りながら各階を観て行きます。

英国らしく肖像画が多いのですが、ポール・メロンが最初に購入した英国絵画で 本人が一番好きだったというジョージ・スタッブスの絵は20点展示されていました。

スタッブス(1724-1806)はなめし皮業者の子としてリバプールに生まれ、 ほとんど独学で絵画を学び、肖像画を描きながら病院で解剖学の勉強をし、 農家を借りて18ヶ月馬の解剖に没頭します。

1759年ロンドンに戻るとリッチモンド公チャールズ・レノックスを始めとする 貴族から馬の絵の注文を多く受けるようになり、1766年には「馬の解剖学」という 著作を発表し、馬を主とする動物画家として独自の地位を占める画家となります。

狩猟と競馬を趣味とする欧米の上流階級の家を飾るに不可欠の1枚となったのです。

ポール・メロンは競馬のオーナーであり牧場も持っていたので、 特にスタッブスに惹かれたのでしょう。

ジョン・コンスタブルは58点も所蔵しています。雲の習作の連作がありました。

英国でコンスタブルと並び称せられる風景画家、ターナーは15点所蔵しています。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)はJ.M.W.ターナーと よく表示されていますが、ロンドンの床屋の息子に生まれ、幼少時から画才を発揮。 14歳でロイヤル・アカデミー付属学校に異例の入学を許される程でした。

同じころ水彩画家トーマス・モールトンのアトリエで水彩画を学んでいます。

ターナーはモールトンを後に私の本当の先生と呼んでいますが、 ターナーは水彩画家としても比類ない大家となり、水をたっぷり含ませて絵具を 伸ばしていく水彩画の技法と、透明感を湛えたその色彩からヒントを得て、 油彩画のあり方を変革して行くのです。

大気感を湛えた独特な風景表現は晩年に行くに連れ、 鮮やかな色彩と抽象的な作風へと変貌して行きます。

彼の変革した風景画はクロード・モネなど印象派の画家やその様式の形成に 多大な影響を与えています。

53歳でロイヤル・アカデミー正会員になったコンスタブルに比べ、27歳で正会員と なり、32歳でロイヤル・アカデミーの教授になるなど早くから認められた大家です。

ターナーは生涯を通じて絶えることなく旅行を繰り返しており、国内、海外を 旅して膨大な風景のスケッチを残しています。

また彼が影響を受けたクロード・ロランの「真実の書」を参考に 「研鑚の書」として歴史画、山系画、田園画、海洋画、建築画などの版画を 教授就任の1807年から1826年まで19年間出版し続けてもいます。

ターナーは自作品の大半を手元に置いており、死亡時に国家に遺贈したので、 ロンドンのテート・ブリテンには彼の油彩、水彩、デッサン、スケッチ帳等 2万点もの作品があり、幾つかの重要な作品はナショナル・ギャラリーにも 展示されています。

このセンターにはイタリアの風景画家カナレットの作品が7点あり、 英国芸術センターに何故イタリア人画家がと一瞬いぶかしく思ったのですが、 彼は英国で余りにポピュラーだったため、1746年渡英し、1755年まで居て 英国の風景画を多く残しているのでした。