美術館訪問記-302 フィッツウィリアム美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:フィッツウィリアム美術館正面

添付2:フィッツウィリアム美術館内部

添付3:ドメニコ・ギルランダイオ作
「イエス降誕」

添付4:ティツィアーノ作
「ヴィーナスとリュート奏者とキューピッド」

添付5:ティツィアーノ作
「ウルビーノのヴィーナス」 ウフィッツィ美術館蔵

添付6:セザンヌ作
「拉致」

添付7:ジョン・コンスタブル作
「パルハムの水車小屋」

添付8:ジョン・コンスタブル作
「ハムステッド・ヒース風景」

添付9:フィッツウィリアム美術館内部

ハーヴァード大学のあるケンブリッジの名は同名のイギリスの地名から来ています。

その本家イギリス、ロンドンの北約70kmの所にあるケンブリッジにも 世界有数の大学付属美術館「フィッツウィリアム美術館」があります。

ここはケンブリッジ大学の付属施設ですが、大学の創立は1209年と 英国で2番目に古い。世界でも3番目の古さ。

大学は総長にエリザベス女王の夫、エディンバラ公フィリップを戴き、 ノーベル賞受賞者は88人とこちらも世界有数。 ニュートンやダーウィン、ミルトンなどもケンブリッジ大学の卒業生です。

美術館は、ケンブリッジ大学の卒業生でアイルランドの貴族、 フィッツウィリアム子爵リチャードが、多数の蔵書と美術品のコレクションと、 それらを収容するための美術館建築費用をケンブリッジ大学に、1816年遺贈。

1848年に開館した美術館は、入場無料で、ヨーロッパの絵画、彫刻、版画、武具、 陶磁器、東洋美術、古代エジプトや古代ギリシャの美術などを展示しています。

新古典様式の堂々たる建物は2階建てで、2階が絵画ギャラリー、 1階がその他のギャラリーとカフェ、売店になっています。

外見もそうですが、内部も宮殿のような豪華な造りで、階段や高い天井、 林立する円柱、方々に配された大理石像も風格を感じさせます。

歴史ある大学で卒業生や共感者からの寄贈、寄付も多く、今では50万点を超える 所蔵品を誇っていますが、絵画のコレクションも素晴らしい。

ヨーロッパ各国の主だった画家を時代別に網羅しており、当然ながら 英国人画家はほぼ全員カバーされていますが、ライバル校のオックスフォード大学 出身のバーン=ジョーンズの油彩画だけはないのは偶然でしょうか。

採り上げたい作品は沢山ありますが、英国には3箇所にしかない ドメニコ・ギルランダイオの作品「イエス降誕」は私の好きな画家の一人ですし、 同主題を幾つか残した彼の作品の中でも、背景描写も含め完成度が高い。

ティツィアーノの「ヴィーナスとリュート奏者とキューピッド」も同工異曲の 作品が、プラド美術館とベルリン絵画館、メトロポリタン美術館にあります。

メトロポリタンにあるのは同じリュート奏者ですが、他の2つではオルガン奏者に 替わっています。それぞれ異なる注文主の求めに応じて描いたもので、 背景がその注文主に合わせて変わっていますが、いずれも庭園付きの邸宅を舞台に 大窓の前に横たわるヴィーナスとその足元に奏者を配しています。

ティツィアーノが背景を仕上げたジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」に 触発されて有名な「ウルビーノのヴィーナス」を描き、横たわるヴィーナスという 主題を発展させていったのですが、前作のヴィーナスが頭を左側にしているのに、 奏者付きのヴィーナスは全て右側になっています。

セザンヌの「拉致」は、彼が28歳の時の作品で、形態と画面全体の絵画的構築を 尊重する将来の成熟した領域へ近づきつつあるのを予感させ、最初から印象派とは 一線を画し、独自の路線を切り開いて行きつつあるのが窺えます。

セザンヌには自然の存在物の中に世界の神秘が潜み、それらは相互に呼応して、 決して単独には存在し得ないという洞察があるようです。 物体には色彩と質量があり、各々の色彩と質量は相互に影響しあうので、 それらのバランスが取れた画面を構築する事を彼は生涯求め続けたのでした。

英国を代表する風景画家の一人、ジョン・コンスタブル(1776-1837)の作品が 9点ありました。

コンスタブルはロンドンの北東90km程の所にあるイースト・バーゴルトの 裕福な製粉業者の子として生まれ、父親の仕事を継ぐべく努めますが、 画家への思い断ち難く、23歳で遅まきながら王立美術学校へ入学。

フランス風景画家クロード・ロランから影響を受け、風景画家になる決意をします。

彼は言います。「水車からこぼれる水の音、柳の木々、堤の朽ちた古い板、 泥だらけの棒ぐい、レンガの壁、こうしたものを私は愛する。 これらの眺めが、私を画家にしてくれた」

しかしイギリスの田舎の牧歌的風景を描いた彼の絵はイギリスでは認められず、 むしろフランスのパリのサロンに出展されると絶賛を浴び、 1824年、金賞を獲得するのです。

若きドラクロワがこの絵を展示前に見て鮮やかな色彩に驚き、自分の出展作の 「キオス島の虐殺」を塗り直したというエピソードが伝えられています。

フランスでの評価を受け、イギリスでも徐々に評価が高まり、1829年、53歳で 漸くロイヤル・アカデミーの正会員になれたのでした。

コンスタブルは幸福な少年時代を過ごした故郷の風景を生涯描き続けました。

野外での制作や、刻々と変化する光の効果を捉えようとし、筆触分割を 試みている事など、その制作態度や技法は印象派に先駆するものと言えます。

ルーベンス16点やゲインズバラ9点、ラファエル前派作品、印象派や 後期印象派、ボナール、ヴュィヤール、マティス、ピカソなど多数の作品を 堪能した後、武具や装飾品類を眺めるのも悪くないでしょう。