美術館訪問記-299 グリーンビル・カウンティー美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:グリーンビル・カウンティー美術館正面

添付2:グリーンビル・カウンティー美術館内部

添付8:ジョージ・ベローズ作
「ディナンの虐殺」

アメリカ合衆国サウスカロライナ州北西部にグリーンビルという町があります。 アメリカ南東部の飛行機のハブ空港になっているアトランタの東北東220km程の 場所にある、人口6万人余りの都市です。

ここにアンドリュー・ワイエスの水彩画の所蔵量、公的機関としては世界一を 誇る「グリーンビル・カウンティー美術館」があります。

この美術館のホームページにそう謳っているのですが、 何点所蔵しているのかはどこにも明記していません。 美術館に問い合わせた所、その時点では水彩画は47点という事でした。

どうも美術館運営資金算出のため、少しずつ売却しているようで、加えて コレクターからの寄贈、寄託もあり、所蔵量は流動的なようです。

私が訪れた2012年5月にはアンドリュー・ワイエス作品は テンペラ画、水彩画、スケッチで計45点、展示されていました。

この美術館は地上2階、地下2階の一部吹き抜けになった、中央に階段と エレベーターを収めた筒と、その筒から奥までを左右に分ける壁以外は 仕切り壁の無い体育館のような構造をしています。1974年開館。

ここの2階の右半分はアンドリュー・ワイエスの作品群が占めていました。 若い頃から晩年まで漏れなくカバーしています。 晩年になるに連れ、彼の絵の訴求力は増して行くようで、 衰えを知らぬ芸術の力に驚かされました。

アンドリューは父の指導で9歳から水彩画を描き始め、 20歳の時にニューヨークの画廊で開いた水彩画の初の個展で、全作品売却という 新人画家としては考え難い偉業を成し遂げるほど卓越した技量を持っていました。

この時、父のN.C.ワイエスは「君は最終的にはアメリカ芸術の頂点に到達する 方向へ向かっている」との賛辞を息子への手紙に書き送っています。

アメリカ一のイラストレーターだったN.C.ワイエスは一流の画家としても 評価されたいと願っていましたが、世間は必ずしもそうは見てくれませんでした。 自分の息子には最初から一流の画家になる道を歩ませたかったのです。

虚弱体質だったアンドリューは生まれ故郷のチャッズ・フォードと別荘のあった クーシング以外は、ほとんど出歩く事もなく、画題の対象はこの2地点や往復時に 見られた風景や人物、動植物に限られます。

しかしそれらの作品は単に目の前の光景の一瞬を切り取ったようなものではなく、 凝縮された時の流れや、対象物の来し方を感じさせるものがあります。 水彩画の微妙な色彩のニュアンスは本物でしか味わえないかもしれませんが。

父N.C.ワイエスはヘンリー・デイヴィッド・ソローを敬愛しており、 奇しくもアンドリューの誕生日はソローの生誕100年目にあたり、父子共ソローの 著作の愛読者だったのですが、森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を送った ソローの超絶主義がアンドリューの根底にも流れているのでしょうか。

他にはアメリカポップアートの先駆者ジャスパー・ジョーンズの 「二つの旗」のような特徴的な作品幾つかと、 一時期はプロ野球選手だったという異色の経歴の持ち主でボクシングの絵が有名な ジョージ・ベローズのシリアスな大作「ディナンの虐殺」などが印象的でした。

ディナンはフランス国境に近いベルギー南部の町で、第1次大戦中ドイツ軍が ここの住民674人を一括処刑し、1か月の間にフランス人も含め市民5000人以上が 殺戮されたのでした。この時負傷したフランス軍兵士の中に後の シャルル・ドゴール大統領もいました。

(添付3:アンドリュー・ワイエス作「鯨の肋骨」、添付4:アンドリュー・ワイエス作「残照」、添付5:アンドリュー・ワイエス作「息子ジャミー」、添付6:アンドリュー・ワイエス作「リベラル」および添付7:ジャスパー・ジョーンズ作「二つの旗」は著作権上の理由により割愛しました。
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