美術館訪問記-298 オルソン・ハウス

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付5:オルソン・ハウス外観

添付6:オルソン・ハウス内部の階段

アンドリュー・ワイエスと聞くと反射的に思い浮かべる絵があります。

それが「クリスティーナの世界」。

アンドリュー・ワイエスの人生を変えた不朽の名作です。

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は生まれながらの虚弱体質で、 小学校も2週間しか通えず、以後16歳になるまで自宅で家庭教師に学び、 父親からは美術の英才教育を受けながら過ごしました。

裕福になっていた父は末っ子のアンドリューの望む事は何でも認め、 アンドリューは自由時間は文学書と音楽と映画に没頭しました。

12歳で出版社からイラストの注文を受けていますから、 当時アメリカ一のイラストレーターだった父親の七光りがあったとしても、 絵画に天賦の才があったのは間違いないでしょう。

夏季は一家でメイン州の別荘で過すようになっていたアンドリューは1939年 翌年結婚する事になるベッツィーと知り合い、彼女の紹介でオルソン一家と 交際するようになります。

貧乏な漁師のオルソン家の娘クリスティーナは会った時46歳でしたが、 小児麻痺が原因で歩行ができないにもかかわらず、車椅子もなく、全て自力で 家事をこなしながら一家の生活を支えていたのでした。

生来病弱で孤独に育ったワイエスは、この足が不自由な女性が、何もかも 自分の力でやってのける生命力に感動し、オルソン家の2階をアトリエとして借り、 出会いの時からその死まで30年に亘ってこの女性を描き続けることになります。

「クリスティーナの世界」は墓掃除に行った彼女が自宅へ這って戻る姿を描いて いますが、当時55歳の彼女は妙齢の女性に、地味な服はピンクに変えられ、 隅々まで焦点があったこの絵はアンドリュー独自の美意識に昇華されています。

孤独感と剛毅な意思、寂寥たる自然。 これらが広大な自然を相手に格闘しながら自立の道を切り開いてきた アメリカ人の郷愁をそそったのでしょうか、アンドリューは一躍有名になります。

1963年、平和と文化の功労者にアメリカ合衆国大統領から贈られる最高の勲章、 自由勲章を画家としては初めて授与されたり、1970年には生存中の画家として 初めてホワイトハウスで個展を開いたりと、アメリカの国民的画家となり、 91歳で死亡するまでその名声に陰りが出る事はありませんでした。

アンドリューは、彼を取り巻く外的変化には一切関わりなく、 荒涼とした自然と、その中に生きる人間と動物を生涯描き続けました。

「クリスティーナの世界」の舞台となった「オルソン・ハウス」は ファーンズワース美術館から16km程南西に行ったクーシングという漁村の海辺の 丘の上にあり、見学可能です。

車で出かけたのですが、途中何の案内もなく、住所も道路名だけで番地はなく、 その道路も何kmもあり、少しまごつき、丁度通りがかった郵便配達員に聞くと 直ぐ傍まで来ていたのでした。

ハウスは岬の先端に位置するイメージでしたが、実際は普通の道の左側にあり、 右側少し先が湾になっています。左側の大分先も海。 建物もボロボロの老朽家屋のイメージでしたが、立派な2階建ての木造家屋で 殆ど古びていません。現役で使用しても何の問題もないように見えました。

クリスティーナは夏になると、土地で採れたブルーベリーを使って、 パイを焼くのが得意だったといいます。パイが焼き上がると、2階のアトリエで 絵を描いているアンドリューに声をかける。おいしそうな匂いが漂う中、 喜び弾んで階段から降りて来る彼の姿が目に浮かびました。

1968年、最後に残ったクリスティーナも75歳で死亡。 同年、アンドリューは姉弟不在のオルソン家の部屋を 二人の力強い存在を感じながら描き遺すのでした。

41年後アンドリューは天寿を全うしますが、本人の希望で、クリスティーナの墓の 近く、彼が「クリスティーナの世界」を描いた場所の付近に葬られています。

(添付1:アンドリュー・ワイエス作「クリスティーナの世界」1948年ニューヨーク・近代美術館蔵、添付2:アンドリュー・ワイエス作「エビ捕り籠」1939年ワイエス家蔵、添付3:アンドリュー・ワイエス作「オイルランプ」1946年ワイエス家蔵 クリスティーナの弟アルヴァロがモデル、添付4:アンドリュー・ワイエス作「クリスティーナ・オルソン」1947年個人蔵 および添付7:アンドリュー・ワイエス作「アルヴァロとクリスティーナ」1968年ファーンズワース美術館蔵 は著作権上の理由により割愛しました。
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