美術館訪問記-293 アンディ・ウォーホル美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付5:アンディ・ウォーホル美術館外観

添付6:アンディ・ウォーホル美術館内部

アメリカ合衆国ペンシルベニア州南西部に位置する都市ピッツバーグに 「アンディ・ウォーホル美術館」があります。

「自画像」や「キャンベル・スープ缶」「マリリン・モンロー」などの アメリカポップアートの第一人者、アンディ・ウォーホルの作品画像を 一度も目にした事のない健常日本人はいないでしょう。

ポップアートは1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生し、 1960年代にアメリカを中心に爆発的に世界に広まりました。

ポップというのは英語のポピュラーの短縮形で、大衆雑誌、広告、看板、漫画など、 卑俗な日常生活の中に溢れている物をそのまま借りて使用しています。

1950年代に盛んだった抽象絵画に対する反動として、具体的なイメージを 臆面もなく強調し、そのイメージを変形、拡大、分断して提示して見せたのです。

アンディ・ウォーホル(1928-1987)はスロヴァキア移民の子として ピッツバーグに生まれ、幼少の頃から芸術の才能を発揮し、カーネギー工科大学で 広告芸術を専攻。卒業後ニューヨークに出て 商業デザイナー・イラストレーターとして成功します。

1961年、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした 作品を描くようになり、1964年にはファクトリー(工場)と呼ぶスタディオを構え、 シルクスクリーンプリントを用いて、あたかも工場で大量生産するかのように 作品を量産するようになります。

シルクスクリーンという本来は版画に使う技法を使って、紙にではなく、 キャンバスに刷って、絵画として売るというのは美術の世界では革新でした。

それまでの絵画のルールを破り、大衆文化から出てきた、低俗とも思える主題を 絵画の主題にしのも革新的だったのです。

これらは飛ぶように売れ、時代の寵児となったウォーホルは、ロックバンドの プロデュースや映画制作、雑誌発行なども手掛け、マルチな才能を発揮しました。

ウォーホルの死後2年半後に彼の生誕の地ピッツバーグに彼だけのための 美術館建設が発表され、1994年開館。

7階建てで8200㎡(約2500坪)もの展示スペースがあり、1個人だけのための 美術館としてはアメリカ最大。地下はカフェになっていました。

絵画900点、デッサン2000点足らず、版画1000点以上、彫刻77点、 写真4000点、ウォーホルの映画・ビデオ作品4350点の所蔵を誇ります。 勿論全てが世界一。

各階にはだいたい3部屋ずつ配置されており、ウォーホルの広範囲な業績の 全貌を観る事ができる貴重な場所になっています。

それだけに毎年10万人以上の観客を集めており、 個人美術館としては最大規模の観客動員数を誇ります。 ピッツバーグというアクセスの不便な場所柄を考えると大変な数字です。

私もここに来て初めてウォーホルの底知れない多才さを実感しました。

彼は古典もポップアートとして処理してしまっているのでした。 ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」、ジョルジョ・キリコの 「アリアドーネ像のあるイタリア広場」など何例も試みています。

最も驚いたのは日本のポスターもポップアート化して幾つも並んでいた事です。

ウォーホルは1974年に初来日したのですが、日本の映画ポスターが 彼のアンテナに触れたようで、「理由なき反抗」は観た記憶がありましたが、 「処女の生血」などという、日本でも見た事のないようなポスターも ポップアート化していました。

(添付1:アンディ・ウォーホル作「自画像」、添付2:アンディ・ウォーホル作「キャンベル・スープ缶」、添付3:アンディ・ウォーホル作「マリリン・モンロー」、添付4:アンディ・ウォーホルがイラストした靴の広告、添付7:アンディ・ウォーホル作「ヴィーナスの誕生」、添付8:アンディ・ウォーホル作「アリアドーネ像のあるイタリア広場」、添付9:アンディ・ウォーホル作「理由なき反抗」および添付10:アンディ・ウォーホル作「処女の生血」は著作権上の理由により割愛しました。
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