美術館訪問記-282 オスロ大学講堂

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:オスロ大学

添付2:オスロ大学アウラ講堂内部

添付3:ムンク作
「太陽」

添付4:ムンク作
「歴史」

添付5:ムンク作
「アルマ・マーテル」

添付6:ムンク作
「化学」(左)と「新しい光」(右)

添付7:ムンク作
「太陽に向かう女達」(左)と「太陽に向かう男達」(右)

添付8:ムンク作「自画像」1926年 ムンク美術館蔵

ムンクというと「フリーズ・オブ・ライフ」の連作のような 暗闇と恐怖、愛の絶望を通して人間を描く画家のイメージがあるかもしれませんが、 そんなムンクのイメージを覆すような傑作がオスロにあります。

第142回のオスロ国立美術館の前にある「オスロ大学講堂」がその場所です。 1989年までノーベル平和賞授与式の会場として使用されていました。

1911年、オスロ大学は創立100周年になるのを記念してアウラ講堂を建立。 その講堂内部を飾る壁画を公募します。

ムンクはそのコンペで見事第1位を勝ち取り、講堂の三方の壁面を11の壁画で 飾ります。1916年に除幕式が行われました。

講堂の正面中央を飾るのは縦4m50cm、横7m80cmという巨大な作品、「太陽」。

フィヨルドの海に昇る朝日が、まぶしいほどの光を放ち、視線は、 黄色い色彩が溶け込む中心へと引き寄せられていきます。

際立つのは、これまでの彼のイメージを覆す激しく色鮮やかな華やかさ。 そして荒々しい筆さばき。

花火のように放射状に広がる光のスペクトルで、太陽の恵みと活力が 大胆に表現されているこの絵を、ムンクは自己の苦悩の消滅と 希望の光として描いたかのようです。

というのも心の病とアルコール中毒による神経衰弱に打ちのめされたムンクは、 1908年、自らコペンハーゲンのヤコブセン神経症治療所に身をゆだね、 8か月の入院生活で心身とも健康を取り戻した直後に、親類から勧められて、 1909年に発表されたオスロ大学の壁画コンペ下絵に取り掛かったのでした。

11枚の壁画は直接壁に描いたものではなく、借りたスタディオで描いた油彩画を 運び込んだ物なのですが、その総面積は220平方メートルにもなるそうです。

「太陽」に向って左手の壁には「歴史」が、右手には「アルマ・マーテル(母校)」 が描かれていますが、これらは450 x 1163cmというムンクの生涯で 最も巨大な作品です。

「歴史」は北欧らしい清冽な陽光に充たされた、岩山と海、空から成る雄大な 背景に、大樹のもとで人間の知恵と知識が、口承によって民族の伝統と歴史として 太古から語り継がれてきた事を示しています

「アルマ・マーテル」は草原で赤ん坊に乳を含ませる女性と、その庇護のもと 世界への興味を育んでゆく子供たちを描いています。

「アルマ・マーテル」とは1088年に創建されたヨーロッパ最古の大学、 ボローニャ大学を指しています。

自然の豊穣を象徴しているこの何とも力強く暖かい「アルマ・マーテル」は 本来はローマ神話の大地母神ケレスに与えられた呼び名です。 「恵みの母」、「養育の母」を意味するラテン語です。

壁面の空隙を埋めるように、「化学」と「新しい光」、「太陽に向かう女達」、 「太陽に向かう男達」、「泉」、「収穫」、「光を浴びる守り神」、 「光を浴びて目覚める男達」が配されています。

この後のムンクは変身を遂げたように明るい色彩で自画像を描く事が多くなって いきますが、それらの絵からは、観る者の心を不安にせずにはおかない ムンクの心の叫びは聞こえてこないのです。

オスロ大学アウラ講堂は、私達が訪れた時は、一般客には7月中旬から 8月中旬のみしか公開されていなかったので、訪問前に確認して下さい。