美術館訪問記-281 ムンク美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ムンク美術館外観

添付2:ムンク美術館内部

添付3:ムンク作
「自画像」1881年

添付4:ムンク作
「マリダレン風景」1881年

添付5:ムンク作
「マドンナ」

添付6:ムンク作
「叫び」1910年

添付7:ムンク作
「叫び」1893年
オスロ国立美術館蔵

添付8:ムンク作
「病める子」

添付9:ムンク作
「自画像」1940年

ノルウェーの首都オスロの都心から少し東北に広い植物園がありますが、 その前にあるのが「ムンク美術館」。

1963年にムンクの生誕100周年を記念してオスロ市が開館。

ムンクがオスロ市に遺贈した作品や記録類、ムンクの妹のインゲルの遺贈品や 美術館が購入、寄贈を受けたりした作品を展示・管理しています。

その収蔵絵画作品は今や1150点を超え、彼の版画全作品を含む17800点の版画、 彼の200冊のスケッチブックを含む7700点のデッサン、21体の彫刻、 500点の版画原版、ムンク自身が撮影した数々の写真等も所有し 総収蔵点数は28000点にもなります。

ノルウェー近代絵画の代表的な画家エドヴァルド・ムンク(1863-1944)については 第92回のオスロ国立美術館の中で触れたので、そちらも参照して下さい。

ここは広い館内にゆったりとした展示で、ムンクの全貌を一望することができる 稀有な場所です。ムンクは気に入った作品は売らずに手元に残しており、 彼の死後、遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈されたのです。

ムンクは技師になろうとして工業専門学校に入るのですが、リューマチ熱のため 度々学校を休み、1880年には退学して画家になる事を決意するのです。

翌年、王立美術工芸学校に入学し好きな絵の勉強を始めると健康になっていきます。 ムンク美術館には彼がこの時最初に描いた「自画像」が展示されていました。 その年に絵が2枚売れたというのですから、早くから才能を発揮していました。

彼は長身でハンサム。母、姉を早くに亡くし、自身死への恐れと漠然たる不安を 常に抱えていたので、憂いを湛え、女性心をくすぐったのでしょう、 女性関係は絶えず、不倫関係もありましたが、生涯独身を貫き、 結婚を望む恋人にピストルで撃たれたこともありました。

1902年の出来事で、この時彼は左手の指の2関節を失っています。

これらの個人的な体験や人間生活の根底にある現実への疑念に基づいて 彼自身が「フリーズ・オブ・ライフ」と呼ぶ一連の作品を手掛けるのです。

ここでのフリーズとはシリーズとか連作というような意味で使われていますが、 モネの積み藁の連作のような時間の推移に従うような関連性はなく、 彼が人生の支配的な力と考えていたテーマ、愛、恐怖、死を描いたものでした。

それぞれのテーマ毎に数多くの作品を残していますが、愛については 「マドンナ」にムンクの特徴がよく表れています。

マドンナとは聖母マリアを指す言葉で、この絵でも頭上に光輪のようなものが 赤色で描かれているので明らかなのですが、聖母としては若く、裸身をさらし、 身をよじらせ、表情豊かなポーズをとっています。 背景は暗く渦巻き、不安の中に安らぎを与える聖母であるかのようです。

それまで描かれて来た、品格ある高踏的で神性を備えた聖母像とは 判然と異なるものです。

恐怖を代表するのはムンクの代名詞のようになっている「叫び」でしょう。

これはムンクが実際に、オスロの郊外の丘陵地帯を歩いている時に、 血の色に染まった夕空を見て体感した恐怖を表現しており、 ムンクは「自然を貫く叫びのようなものを聞いた」と記しています。

前に紹介したオスロ国立美術館にあるムンクの「叫び」は油彩画ですが、 ここにある「叫び」はテンペラ画で、描かれた年代も異なります。

1994年にオスロ国立美術館所の「叫び」が盗まれ、ロンドン警視庁美術特捜班の 活躍により3か月後に犯人は逮捕され、作品は取り戻されたのですが、 10年後の2004年、今度はムンク美術館の「叫び」と「マドンナ」が、 銃を持った強盗団に襲撃され強奪されてしまったのです。

奪われた絵画が発見されたのは、2年後の2006年、2点ともオスロ市内で 確保されたのですが、いずれも損傷を受けており、「マドンナ」は修復できたものの、 「叫び」は液体による損傷が激しく、完全な修復は不可能だったといいます。

死の例として「病める子」を添付しました。15歳で結核で死んだ姉のソフィアの 死の間際の病床での様子を描いたものですが、13歳だったムンクにとっての 衝撃は大きかったようで、彼は繰り返し同じテーマを取り上げています。

美術館にはムンクが最後に描いた「自画像」もありました。