美術館訪問記-277 ノートン美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ノートン美術館外観

添付2:ノートン美術館中庭

添付3:クールベ作
「静物」

添付4:ルノワール作
「少年の肖像(アンドレ・ベラール)」

添付5:ゴーギャン作
「ゲッセマネの園の苦悩」

添付6:デュフィ作「ピンクのソファの裸婦」

添付7:ボナール作
「サントロペの海岸」

フロリダ半島のサラソータとは反対側の東海岸に南北25kmの砂州の上に造られた パームビーチという町があります。 富裕層の別荘地・リゾート地として発展して来た街です。

この町のワ—ス湖を隔てたすぐ西側に同じく南北に長いウェストパームビーチが あります。商工業都市で、前者が人口1万人余りなのに後者は10万人余り。

このウェストパームビーチに「ノートン美術館」があります。

シカゴで機械メーカーの社長だったラルフ・ノートンが引退後、余生を送るために 温暖なこの地に越して来て建てた美術館とコレクションを土地ごと ウェストパームビーチ市へ寄贈したもので、1941年の開館。

ノートン夫妻は学生時代から美術を趣味としており、シカゴ美術研究所館長が 友人だったこともあり高い鑑識眼を持ち、画家の最高の1作を購入する主義でした。

真の収集家だった夫妻は美術館寄贈後も美術品の購入を続け、1947年に妻が、 1953年にラルフが死亡時には各自が収集品を美術館に遺贈しています。

その後も地域のコレクターの寄贈や美術館の購入で、所蔵作品数は7000点を 超えています。

1996年に三鷹市美術ギャラリーで「印象派からピカソへ」という特別展があり、 それまで観た事のなかった印象派以降の作品ばかりで驚いたのですが、 この時の出品作品が全てノートン美術館からのものでした。

この時初めてノートン美術館の存在を知り、その2年後に初訪問したのです。

南国らしい椰子の木が館の内外に植えられた近代的なビルディング。

コレクションはノートン夫妻の好みを反映して近代絵画が主体です。 ミレーやクールベが古い方で印象派以降のヨーロッパ、アメリカ絵画が中心。

ルノワールの作品を収集し、彼の最初のパトロンとなるポール・ベラールの息子の パステル画が、後ろ盾を得てほっとしたルノワールの心情を反映するような 明るさと、家族ぐるみの付き合いだった親密さを感じ、好感が持てました。

それとは対照的なゴーギャンの「ゲッセマネの園の苦悩」は、 ゴッホとの2か月余りの同居生活の破局直後に描かれ、苦悩するイエスに 見立てた顔はゴーギャン、オレンジ色の髪はゴッホを象徴し、二人とも 世間に真価を認められない陰鬱な心情を表しているように思われます。

デュフィの「ピンクのソファの裸婦」は、彼が25歳の時の作品で、 まだパリの美術学校のレオン・ボナのアトリエにいる頃に描かれ、 アカデミックなボナの画風を反映した構図になっていますが、 強すぎる色のアクセントはフォーヴィスムの黎明を告げるかのようです。

デュフィの裸婦のポーズはボナールの描く妻のマルトの浴槽での様々な絵画を 想い起させますが、日々の生活の中から主題を選んだ親密派と言われる ボナールが友人の画家ポール・シニャックの家族を描いた海岸での光景もあります。

ヨーロッパ絵画だけではなく、アメリカ絵画も数多く展示されていました。

ベン・シャーンの「私は夢見る勇気がなかった」はビキニ環礁の水爆実験で 被爆し、死亡した第五福竜丸の無線技士、久保山愛吉の未亡人の口から出た言葉を シャーンが具現化したものですが、背景知識がなくても、時と場所を越えた悲劇を 訴えかけて来る普遍性を感じます。

(添付8:ベン・シャーン作「私は夢見る勇気がなかった」 は著作権上の理由により割愛しました。
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