美術館訪問記-273 ミロ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ミロ美術館正面

添付2:ミロ美術館内部

添付3:ミロ美術館テラスから見たバルセロナ風景

スペイン、バルセロナの港の直ぐ近くにあるムンジュイックの丘に「ミロ美術館」が あります。ミロの彫刻が並ぶ広いテラスからはバルセロナの景色が一望できます。

個人美術館としては世界最大であり、バルセロナの人々からは 「ミロからの贈り物」と呼ばれています。

というのも、1968年にミロ自身の意思で美術館設立を志し、1975年に開館。 ミロの絵画やデッサン、スケッチ、陶器や彫刻、布を使ったアートなど幅広い作品 11,000点近くを擁する美術館で、作品の大半は、ミロ自身が寄贈したものなのです。 ジョアン・ミロ(1893-1983)はスペイン、カタルーニャ地方の中心都市、 バルセロナの生まれ。

ミロの名前のJoanは普通のスペイン語ではホアンと発音しますが、 ミロは自分の名をジョアンと呼ぶように主張し続けました。 彼は自分はスペイン人ではなくカタルーニャ人であり、 カタルーニャ語読みのジョアンでしか呼ばれたくないと思っていたのです。

中世にはバルセロナを中心とするカタルーニャ地方は独立国家として栄えており、 彼にもカタルーニャ人としての誇りがありました

彼は7歳でデッサン・スクールに入学。芸術家を志すのですが、 実直な父は彼を18歳で簿記係に就かせます。

しかし、ミロは全く仕事が自分に合わず神経衰弱とチフスを併発、 2ヶ月も生死の淵をさまよいました。父は彼を商人にするのを断念し、バルセロナ から車で西へ2時間程のオリーブ畑に囲まれたモンロッチの別荘で静養させました。

快復後の翌1912年、バルセロナの美術学校に入学。26歳でパリに出、 モンロッチとパリを往復しつつ制作するようになります。 パリではピカソら芸術家達とも知り合い、シュルレアリストのグループに入ります。 この頃からミロ独自の絵画の記号化が始まります。

1929年スペイン領マヨルカ島(英語ではマジョルカ)のパルマ在住の娘と結婚し、 パルマに構えたアトリエで制作するようになります。

1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていきます。 晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を 数多く残しています。

1970年には大阪万博のガス館に陶板壁画「無垢の笑い」を制作するため来日。 1983年、パルマで老衰のため死去。享年90。

「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」 と言った12歳年上のピカソから「永遠の子供」と言われ、 無邪気な子供の落書き風の摩訶不思議な作品が多数展示される美術館では、 ミロの全てを感じる事ができたような気がしました。

なにせ彼が8歳で描いた今に残る最初期の作品「足治療医」から 鉛筆と墨汁を使ってバルセロナの高級地区を描いた「ペドラルベスの通り」、 第二次世界大戦前の悲観的な心情を表した「男と女、たくさんの排泄物の前で」、 第二次世界大戦中、フランスのノルマンディー地方に疎開しなければ ならなかった頃に現実逃避を望んで描いた作品「朝の星」、 晩年の彫刻「犬」まで、ミロの移り変わり行く表現様式を余すところなく 居ながらにして鑑賞できるのですから。

「絵画は詩だ」と言い、実際に多くの詩も残したミロの詩情が館の隅々にまで漂う 美術館なのでした。

この美術館はミロの作品だけでなく現代美術センターとして 種々の設備が整っており、若い芸術家の為の企画展が常時開催されています。

それ以外にも、モンドリアン、カンディンスキー、ピカソ、マティス、ダリ、 バルテュス等、ミロ個人のコレクションも展示されていました。

(添付4:ジョアン・ミロ作「無垢の笑い」陶板640枚、添付5:ジョアン・ミロ作「足治療医」 1901年作、添付6:ジョアン・ミロ作「ペドラルベスの通り」 1917年作、添付7:ジョアン・ミロ作「男と女、たくさんの排泄物の前で」 1935年、添付8:ジョアン・ミロ作「朝の星」 1940年、添付9:ジョアン・ミロ作「犬」 1974年、添付10:バルテュス作「ミロと彼の娘ドロレス」1937年 は著作権上の理由により割愛しました。
 長野さんから直接メール配信を希望される方は、トップページ右上の「メール配信登録」をご利用下さい。 管理人)