美術館訪問記-270 ゴヤの霊廟

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ゴヤ作
「カルロス4世の家族」
プラド美術館蔵

添付2:ゴヤ作
「マドリード、1808年5月3日」
プラド美術館蔵

添付3:ゴヤ作
「我が子を食らうサトゥルヌス」
プラド美術館蔵 黒い絵の代表作

添付4:ゴヤの霊廟外観

添付5:ゴヤの霊廟内部

添付6:ドームの壁画、ゴヤ作
「パドゥアのサン・アントニオの奇跡」

添付7:ゴヤ作
「天使像」

前回触れたゴヤは本名フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス。

近代絵画の創始者の一人として知られ、ベラスケスとともに、スペイン最大の画家。 ベラスケス同様、首席宮廷画家に任命され画壇に重きをなしています。

ゴヤは1746年スペイン北東部の寒村の生まれで、父親は鍍金師、母親は 最下級の貴族であるイダルゴの出身。

14歳で地方画家に入門。24歳でイタリアに1年間遊学し、ルネサンスの傑作に触れ、 フレスコ画の技法を学んで帰国します。

28歳でマドリードに出、王立タピストリー工場の下絵画家になり、 34歳でアカデミー会員、40歳で国王付きの画家になり、名声が上がり、 注文が殺到するようになります。

1789年には念願の宮廷画家に任命され順風満帆と見えた矢先、 1792年に謎の難病で聴力を完全に失ってしまいます。

しかし彼は不屈の闘志で画業に専念し、ゴヤの代表作とされる「裸のマハ」 「着衣のマハ」「カルロス4世の家族」「マドリード、1808年5月3日」等は いずれも聴力を失った後に描かれています。

「カルロス4世の家族」は当時の王家一族の集団肖像画ですが、 ゴヤは鋭い観察眼で、冷徹、リアルに飾ることなく、赤裸々な一家の実像を 描き切っています。

凡庸な国王、粗野で下品な王妃、左から2番目の傲慢で横柄な皇太子、 恐るべきゴヤの筆力は彼等の実態を浮き彫りにせざるを得なかったのです。

1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、事実上、 ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけて スペイン独立戦争に突入。

戦乱の悲惨さを体験したゴヤは版画集「戦争の惨禍」や「黒い絵」と通称される シリーズ絵画を残しています。

当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて78歳の時にフランスに亡命。4年後の 1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じています。

その「ゴヤの霊廟」がスペインの首都、マドリードの西を流れる マンサナーレス川と、近郊への列車やバス、地下鉄の複合施設、 プリンシペ・ピオ駅との間に建っています。

正式名称はサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂。

簡素で優美な新古典主義の聖堂は、1797年にカルロス四世の命によって建設され、 翌年ゴヤがフレスコ画で内部を装飾しました。

1905年には国の記念建造物になり、1919年からゴヤの遺体が安置されています。 尤も、彼の首は客死したボルドーで誰かに持ち去られ未だに見つかっていませんが。

瓜二つの建物が並んで建っていますが、寸分違わない二つの建物のうち、 目的の霊廟は駅に近い方。

1928年には、蝋燭の煙によるフレスコ画の損傷を避けるため、そして本来の教会を 美術館および霊廟として保護するため、隣に全く同じ教会が建てられ、 礼拝などの宗教的行事はそちらの教会に場所を移しています。

小さな教会の天井を形成するドームから丸天井、アプス(後陣)、ヴォールト(穹窿)、 壁とヴォールトとの繋ぎ目等に、ゴヤのフレスコ画、 「パドゥアのサン・アントニオの奇跡」があります。

不自然な形で上を見上げ続けなくても済むように、床に鏡が幾つか置いてあります。

ゴヤにしては色が明るく、楽しげな顔をした若い女性が多い。

その時代の型を破って、ゴヤは天使の合唱団の絵の上、つまり天上の舞台のために とって置かれたドームにサン・アントニオを描いています。

窓に挟まれた丸天井と壁面やヴォ―ルトには、女の天使たちが見られます。 なめらかな衣装に身を包んだ官能的で美しいこれらの天使たちは、 ゴヤの理想とした女性像なのでしょうか。