美術館訪問記-264 スルバラン美術館 

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:セビーリャ郊外のひまわり畑

添付2:スルバラン美術館(サン・ファン・バウティスタ教会)正面

添付3:スルバラン美術館内部

添付4:フランシスコ・デ・スルバラン作
「十字架のキリスト」

添付5:フランシスコ・デ・スルバラン作
「無原罪の御宿り」

添付6:フランシスコ・デ・スルバラン作
「無原罪の御宿り」拡大図

添付7:美術館前庭のブーゲンビリアの大樹

今日のような寒い日には時折思い出す、炎暑日の旅があります。

私の旅は暑さや寒さを避け、春や秋に行くのが圧倒的に多いのですが、 2004年に妻と行ったスペインの旅は、仕事の都合もあって6月後半から 7月半ばにかけてとなってしまいました。

スペインのこの時期は連日快晴が続き、気温も40℃を超える事もあり、 暑さと戦いながらの旅になりましたが、この時期ならではの眼福もありました。

それが一面に広がるひまわり畑。見渡す限りひまわりで覆われた景色というのは この時しか目にした事はありません。

訪れる途中、そんな景色が楽しめたセビーリャ郊外の町、マルチェナに 「スルバラン美術館」があります。

美術館といっても実態は教会で、サン・ファン・バウティスタ教会でもあります。 我々が訪れた日も30人ほどが集まって葬式の最中で、邪魔にならないよう 忍び足で教会内周囲の壁にかかったスルバランの絵を鑑賞させてもらいました。

フランシスコ・デ・スルバラン(1598-1664)はポルトガルとの国境に近い 小村の生まれで、16歳から3年間セビーリャの無名画家の下で修業します。 この時7ヶ月年下のディエゴ・ベラスケスと知己になります。

修業後故郷に戻り、結婚して約10年間つつましく暮らしますが、 1625年の再婚に伴い、再婚相手のつてでセビーリャに出て 「スペインのカラヴァッジョ」と呼ばれる激しい明暗法と写実描写で活躍しました。

マドリードでスペイン宮廷画家になっていたベラスケスの仲介で、1634年、 マドリードに出て王宮の「諸王国の間」を飾る作品を描いたりもしますが、 スルバラン最大の魅力である静謐な表現は受け入れられず、 宮廷画家とはなれず、セビーリャに戻ります。

セビーリャに蔓延したペストで才能ある画家の息子や妻、子供達を次々となくし、 台頭して来たムリーリョの名声に押され、人気と富を失った彼はベラスケスを頼り、 1658年マドリードに再度上京して、ベラスケスの騎士団加入の資格審査で 彼の為の証人となったりしますが、2年後ベラスケスが死亡すると、 再び日の目を見る事はなく、貧困の内にマドリードで没します。

サン・ファン・バウティスタ教会は洗礼者ヨハネを祀る教会で サン・ファン・バウティスタは洗礼者ヨハネのスペイン語読みです。

15世紀に建立され、スルバラン作の9点もの祭壇画を保有し、 1931年にはスペイン文化遺産記念建築に指定されています。

スルバラン作の祭壇画は1637年に納入されており、「十字架のキリスト」、 「無原罪の御宿り」「洗礼者ヨハネ」とキリストの12使徒の内6人を描いています。

「十字架のキリスト」は簡潔な構図、強烈な明暗法と迫真的リアリズムで スルバランの得意とした深い精神性と信仰心を表現する 静謐な画面を作り出しています。

「無原罪の御宿り」とは、聖母マリアが無原罪(つまり情交なしに)でイエスを 身ごもったと解釈されている人が多いのですが、それは間違いで、 マリア自身が、その母である聖アンナの胎内に無原罪で懐胎したという信仰です。

この事がローマ教皇から教義として正式に認定されたのは1854年だったのですが、 無原罪信仰そのものはマリア崇拝とともに極めて古くからあり、 特にスペインでは熱烈に信仰され、歴代教皇に教義としての認可を迫っていました。

1661年に教皇アレクサンドル7世がこの信仰を公式に認定し、 以後異論を唱える事を禁止する事を発布した時には、 スペインでも擁護派の筆頭だったセビーリャで盛大な祝祭行事が挙行されました。

本作では、三日月に乗り静かに祈りながら地上へと降りてくる 聖母マリアの誕生と聖性を象徴化し、表現しています。

美術館の前庭には強い陽射しの下、ブーゲンビリアの大樹が マリアの衣のように赤く輝く花を咲き誇らせていました。