美術館訪問記-263 キルヒナー美術館 

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:キルヒナー作
「婦人像」1907年
セントルイス美術館蔵

添付2:キルヒナー作
「マルツェッラ」1910年
ストックホルム近代美術館蔵

添付3:キルヒナー作
「病める自画像」1918年
ミュンヘン近代美術館蔵

添付4:キルヒナー美術館正面

添付5:キルヒナー美術館内部

添付7:キルヒナー作
「寛いだヌード」1931年

1937年、難病に苦しんでいたパウル・クレーを、彼が生きている内にじかに接して おきたいと願ったのでしょうか。ベルンの彼のアパートまで当代きっての4人の 画家達が相次いで足を運び、クレーと芸術談義に花を咲かせました。

4人の画家達とは、ピカソ、ブラック、カンディンスキーとキルヒナー。

キルヒナーは今迄採り上げていませんでした。 本名エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)。

ドイツに生まれ、両親の希望もあり、ドレスデン工科大学で建築を学ぶのですが、 教科にデッサンや美術史などもあり、次第に美術に強い関心を持つようになり、 クレー同様、ミュンヘンに出て2年間美術を学んでいます。

1905年、ドレスデンにて学生仲間のヘッケル、シュミット=ロットルフらと 画家グループ、ブリュッケ(ドイツ語で橋の意)を結成します。

ブリュッケとはアカデミックスタイルを退け、新しい表現スタイルを確立するため、 古典と前衛との架け橋となるという意味でした。

ブリュッケの画家達は、現実の描写よりも芸術の主観性を重んじ、 作者の内面を表そうとする、ドイツ表現主義の立場を執り、 粗野な線と派手な色彩を用いた情動的な画面が特徴です。

ブリュッケにはその後エミール・ノルデやマックス・ペヒシュタイン、 オットー・ミュラー等も参加しますが、1913年には解散します。

第一次大戦に応募して兵役に就きますが、程なく神経を病み退役。 フランクフルト近郊のサナトリウムで療養生活を送った後、 友人の招待をきっかけに1917年にスイスのダヴォスに移り住みます。

ダヴォスの穏やかな環境が合ったのか、急速に回復に向かい、ドイツやスイスでの 展覧会も成功して名声も上がって行きます。

しかし1933年にナチスが政権を掌握すると、キルヒナーの作品は退廃芸術との 烙印を押され、「退廃芸術展」に32点もの作品が並んでしまいます。

このことが原因でさらに精神に異常を来したキルヒナーは、 1938年にダヴォスの自宅でピストル自殺をし、58年の生涯を閉じるのです。

そのキルヒナーのための美術館がダヴォスにある「キルヒナー美術館」。

ダヴォスは国際的に著名な企業人、政治家、学者などが一堂に会し、 世界の諸問題を討議する世界経済フォーラム(通称ダヴォス会議)が 毎年開催されることで有名な山麓のリゾート・タウンです。

標高が高く、海抜1560m。キルヒナー美術館の横は崖でその下に公園があり、 その前が駐車場になっています。

崖を登って外がガラス張りの箱を並べたような美術館へ入ります。

コンクリートの箱を並べたような造りで、箱と箱の間が通路で、 通路の両側の壁にも展示してあります。 天井は塞がっており、展示室には窓もなく、人工照明のみを使用しています。

展示用の箱は4つしかありません。一番大きな箱は中央に機織り機が置いてあり、 キルヒナーがデザインしたタペストリーが12枚、3方の壁に展示してありました。

残りの壁にはキルヒナーの撮影した家族やモデルの写真が15葉、 4方の壁には所々彼の油彩画や素描も展示してあります。

通路の壁にはキルヒナーの彫った木版の版木が10点掛かっていました。

一番奥の箱にはキルヒナーの油彩と並んで、フェイニンガー、ベックマン、 ヘッケル、シュミット=ロットルフの油彩画が1点ずつ掛かっていました。

「寛いだヌード」と題された1931年作の作品がキルヒナーらしさのない、 気負いなく素直なタッチで、私の好みには合いました。

もう一つの箱はダヴォスの街の風景画が多い。若い頃の大胆かつ不安に満ちた フォルムと色彩からは想像できないほど、穏やかな画風に変化しています。

残りの一つはこの付近の学生の模写作品の展示に充てられていました。

(添付6:シュミット=ロットルフ作 「夏の日」1910年は著作権上の理由により割愛しました。
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