美術館訪問記-260 パウル・クレー・センター

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:パウル・クレー・センター外観

添付2:パウル・クレー・センター内部

添付3:パウル・クレー作
「ドゥルカマラ島」

添付4:パウル・クレー作
「赤のフーガ」

添付5:パウル・クレー作
「忘れっぽい天使」

添付6:パウル・クレー作
「いにしえの響き」バーゼル美術館蔵

添付7:パウル・クレー作
「パルナッソス山へ」ベルン美術館蔵

添付8:パウル・クレー作
「セネシオ」バーゼル美術館蔵
セネシオは菊の花と老人を意味する造語

スイスの首都ベルン郊外の丘陵地帯に「パウル・クレー・センター」があります。

パウル・クレー財団のコレクションと、クレーの息子のフェリックス・クレー のプライベートコレクション、クレーの家族からの寄贈品や寄託品、 その他寄贈・寄託作品等を統合して2005年6月にオープンしました。

今ではパウル・クレーの生涯全作品の6割近い6000点程を所蔵しています。

この美術館はバーゼルのバイエラー美術館(第166回参照)も手掛けた レンゾ・ピアノの設計で、波の形に3つの鉄骨とガラス製の半円が並んでいる、 奇抜な構造をしています。

一番左側と中央の半円の間の同じく鉄骨とガラスで出来た、連絡通路の中央に 入口があり、左側棟がティケット売場と売店、レストラン、オーディトリアム、 ミーティングルームになっています。

中央棟だけが展示用。右棟は図書室、オフィス、研究室となっていました。 全てが地上1階、地下1階の造り。

パウル・クレーは1879年ベルン近郊生まれ。ドイツ人。父は音楽教師、母は声楽家。 クレーも早くからヴァイオリンを学び、天才ぶりを発揮。 11歳でベルン・オーケストラから招聘されるというプロ級の腕でした。

同時に絵画、文学にも興味を持ち、苦悩の末、絵画の道に進む決心をします。

18歳で当時パリと並ぶ芸術の都だったミュンヘンに出、カンディンスキーも 学んでいた美術アカデミーに入学しますが、教育内容に嫌気がさして 早々に見切りをつけ、イタリアに遊学後故郷に戻ります。

26歳でピアノ教師リリーと結婚しミュンヘンで暮しますが、絵は全く売れず、 クレーは主夫として、生まれた息子の育児・家事をし、妻が家計を支えたのでした。

台所をアトリエにして絵を描き続け、版画も多く作成します。 34歳で行ったチェニジア旅行で色彩に開眼。 この頃から漸く認められ始め、1919年にドイツ、ワイマールに設立された 美術学校、バウハウスの講師として、41歳で招かれ、生活は安定します。

しかし1933年政権を執ったナチスに「退廃芸術」の烙印を押され、迫害を受け、 同年スイス、ベルンに亡命。2年後原因不明の難病、皮膚硬化症を発病し、 病魔と闘いながら、1939年には年間1253点の作品を制作。翌年力尽きたのでした。

クレーの絵は経済的事情もあってか、普通のキャンバスに描いたものは少なく、 新聞紙、厚紙、布、ガーゼなど身近にあったものに油彩、水彩、テンペラ、鉛筆、 糊絵具等さまざまな画材を用いて描いています。

このセンターには版画も含め、それらが幅広く展示され、 育児中に息子の為に作った手製の人形等もありました。

展示されていた最大の絵は「ドゥルカマラ島」。88×176cm。 この絵はジュートに描かれ、淡く優しい色彩と天真爛漫な線と形態。

死の2年前に描かれたクレーの最高傑作で、 彼の作品に共通して基調となる音楽性と夢想性に溢れています。

しかし現実の彼は整理好きで几帳面。自身で8918点の作品については、目録を 自分で作り、12冊のノートに1点、1点、材料や画法、寸法等を記入しています。

また理論家でもあり、美術学校で造形理論を教えていた時には、講義の為に 3000枚以上の草稿を書き、画家の制作行為を数学的、幾何学的に解明しようと したのです。

「ドゥルカマラ島」のような題名もクレーが非常にこだわったところです。 彼は生涯にわたって、ほとんどの作品に詩的でユニークな題名をつけました。 何れも類似性の少ない、印象的なものです。

「ドゥルカマラ島」は実在する地名ではなく、ドゥルカマラとはラテン語で、 形容詞の「甘い」と「苦い」を組み合わせた造語といいます。 題名を考える時、彼は詩人でした。

彼の絵には、昔から果たせなかった音楽や文学への夢が実現されているのです。