美術館訪問記-259 ヤマザキマザック美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヤマザキマザック美術館とヤマザキマザック本社ビル

添付2:ヤマザキマザック美術館正面

添付3:ロダン作
「カレーの市民」国立西洋美術館蔵

添付4:ボナール作
「薔薇色のローブを着た女」

添付5:ヤマザキマザック美術館内部

添付6:ジャン=バティスト・グルーズ作
「女性の頭部像」

添付7:ドラクロワ作
「シビラと黄金の小枝」

添付8:シスレー作
「サン=マメのロワン運河」

添付9:モーリス・ドニ作
「聖母月」

添付10:モディリアーニ作
「ポール・アレクサンドル博士の肖像」

名古屋市地下鉄新栄駅の1番出口の直ぐ前にある真新しい5階建の 矩形のビルディングが「ヤマザキマザック美術館」。2010年開館。

白壁のビルで、2階まで吹き抜けになった入口前に、朱色の美術館名の入った 暖簾仕立ての垂れ幕が色鮮やかなコントラストとなっています。

入口横の道路上にロダンの「カレーの市民」の群像の中の一体、 ジャン・ド・フィエンヌの習作裸像が「なぜこの素晴らしい美術館に入らずに 済ませられるのか」と問い掛けるような両手を広げたポーズで置かれています。

「カレーの市民」はロダンの彫刻の中でも1, 2を争う著名作品で、 英仏間の百年戦争時の1347年、フランス側の重要な港カレーが、 1年以上に渡りイギリス軍に包囲されていた際の出来事に基づいています。

包囲のため食料品が入らず、飢餓のためカレー市は降伏を余儀なくされました。 イギリス王エドワードは、市の主要メンバー6人が自分の元へ出頭すれば 市の人々は救うという条件を出しましたが、それは6人の処刑を意味していました。

カレー市の裕福な指導者のうちの6人が城門へと歩いたのです。 まさにこの、敗北、英雄的自己犠牲、死に直面した恐怖の交錯する瞬間を ロダンは捉え、強調し、迫力ある群像を作り出しました。

ロダンのオリジナルの鋳型から作られた像は全部で12あり、 その1番目は現在もカレー市庁舎前にあります。 9番目が東京の国立西洋美術館前に飾られています。

ジャン・ド・フィエンヌは6人のうち最も若い人物で、当惑した様子で両腕を広げ、 視線は空をさまよい、周囲に何かを求め、問いかけるようなポーズをしています。

尚、6人の命はエドワード王妃フィリッパ・オブ・エノーが嘆願し助命されました。 彼女は、生まれてくる子に殺戮は悪い前兆となると言って夫を説き伏せたのです。

隣に20階建ての立派なビルが2棟あり、これらが工作機械メーカー、 ヤマザキマザックの本社。1987年に工作機械メーカーとしては 世界一の売上高を記録し、その後もその地位を保っているといいます。

1974年に日本のメーカーとしては初めてアメリカでの現地生産に乗り出す等、 国際展開を積極的に行って来ており、上場されていないため日本での知名度は 低いのですが、1984年の日英首脳会談でサッチャー首相が時の中曽根首相に ヤマザキマザックのイギリス誘致を申し込んだほど、海外での評価は高い。

1919年に名古屋市で山崎鉄工所として創業した会社に終戦後入社して 現在の盛業に導いた創業者の2代目山崎照幸は海外展開の過程で美術鑑賞に目覚め、 収集した美術品を公開すべく本美術館を開館。

1階はロダンやブールデルの彫刻、受付、売店、カフェ、地階にレストラン、 2,3階は図書室とオフィス、4階はアール・ヌーヴォーのガラス、家具等の 工芸品展示室と、企画展、5階が絵画の展示用で5室から成る。

5階の入口踊り場には山崎照幸が最初に購入したというボナールの中品 「薔薇色のローブを着た女」が飾ってありました。これがボナールの妻マルトを ボナール特有の暖色系を多用した暖かで親密な情緒溢れる佳作。

照幸の鑑識眼の高さを窺わせ、期待を持たせられましたが、 最初の小部屋にヴァトー、パテル、ランクレ、グルーズ、シャルダンの中品が並び、 次の大部屋にラルジリエール、ナティエ、ブーシェ、グルーズ、フラゴナール、 ヴィジェ=ルブラン、アングル、ドラクロワ、クールベの大作名画が 勢揃いしているのを見て賛嘆しました。

その次の大部屋にはピサロ、シスレー、ルノワール、モネ、セリュジエ、 ヴュイヤール、ドニ、マルケ、ヴラマンク、デュフィ、ドンゲン、ドラン等が 並ぶのですからフランス絵画の品揃えでは日本一と言えるでしょう。

次の部屋にはアンドレ・ボーシャン、パスキン、モディリアーニ、シャガール、 キスリング、スーティンのエコール・ド・パリのメンバー、 最後の部屋にはレジェ、ピカソ、ブラック、ユトリロ、ローランサン、 デルヴォーが揃っていました。

これだけ質の高い個人コレクションは日本ではトップクラス。 しかも真のコレクターらしく額装からガラス板を外し、撮影自由。 ただドランやローランサン、ピカソ等は撮影禁止。

1916年作の「息子ピエールに授乳するルノワール夫人」の彫像が単にルノワール作 と表示されていたので、リチャード・ギノとの合作とすべきだと学芸員に 伝えてもらうと、暫くして中年の女性学芸員が出て来て侘びを言われました。

第67回のルノワール美術館の項で書いたように、この頃のルノワールは リューマチで手の自由がきかなくなっていて、ルノワール家に住みこんでいた 彫刻家リチャード・ギノがルノワールに指示を受けながら作成していたのです。

その時、何故撮影禁止の作品があるのか聞くと、著作権が取れていないと言います。 作品の所有権を持ちながら著作権を持っていないというケースもあるのですね。 欧米の美術館ではそんな表示を見た記憶はありませんが。