美術館訪問記-254 ボナ美術館 

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:レオン・ボナ作
「自画像」1855年 パリ、オルセー美術館蔵

添付2:ボナ美術館

添付3:ボナ美術館内部

添付4:レオン・ボナ作
「ヨブ」

添付5:レオン・ボナ作
「ヴィクトル・ユーゴーの肖像」

添付6:アングル作
「水浴の女」

添付7:ゴヤ作
「自画像」

添付8:ドガ作
「レオン・ボナの肖像」1863年

添付9:レオナルド・ダ・ヴィンチ作
「女性習作」

添付10:バイヨンヌの駐車券販売機

前回触れたレオン・ボナはエンネルの4年後、1833年にフランスがスペインに 接する国境線の最西端の町、バイヨンヌで本屋の息子として誕生。

13歳で父親の本屋があったスペイン、マドリードに出、絵画を学ぶ傍ら プラド美術館でベラスケスやリベーラ、ティツィアーノ、ヴァン・ダイク等の オールド・マスターの模写をして腕を磨きます。

父の死の翌年21歳でパリに移り、国立美術学校で学びながら肖像画家として 売り出して行きました。

ボナはローマ賞は獲得できなかったのですが、バイヨンヌの町の奨学金で 1858年から3年間ローマに滞在。そこでドガやモロー、エンネル等と知り合います。

1861年にパリへ戻った後、ナポレオン3世の皇妃ウジェニーが彼の絵を購入し、 一躍ボナはフランスの社交界に知れ渡り、肖像画の依頼が殺到します。

以後、レジオンドヌール勲章の受章、サロン審査員就任、国立美術学校教授就任等 順調に歩みを進め、1905年には国立美術学校の学長を務めるに至るのです。

ボナはフランス語の他にスペイン語、イタリア語、英語も堪能で、 自分のアトリエで個人教授をしたりもしていました。

彼の教え子にはトゥールーズ=ロートレック、カイユボット、デュフィ、ブラック、 サージェント、トマス・エイキンズ、ムンク、五姓田義松など、多士済々。

ボナは豊かな収入で集めたコレクションの大部分を1891年、バイヨンヌ市へ寄贈。 生涯独身だったボナは、残りのコレクションも1922年死亡時に遺贈します。

バイヨンヌ市はこれらのコレクションを展示するために「ボナ美術館」を建設。 既存の建物を流用するのではなく、美術館を目的としての建築は当時としては 稀な事でした。

その後も市民からの寄贈もあり、現在では所蔵点数は6500点を超えているとか。

第三共和制期の典型的な建物の外観や、豪華な柱廊のある内部は素晴らしい。

展示品も器に勝る豪華さで、ボナの作品が多いのは当然としても、 ボッティチェッリ、ギルランダイオ、チーマ・ダ・コネリアーノ、ティエポロ、 エル・グレコ、ルーベンス、ムリーリョ、ゴヤ、アングル、ジェリコー、ドガ等が 打ち並ぶ様は壮観です。

中でもアングルの「水浴の女」は、アングルが繰り返し取り組むことになる このテーマの最初のバージョンで、ターバンの表現などに ラファエロの影響が見られる傑作です。

ルーヴル美術館に次ぐというデッサンのコレクションも超一流で レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、パルミジャニーノ、 ティツィアーノ、コッレッジョ、デューラー等が揃い、ため息が出ます。

これら主要作品はほとんどボナのコレクションで、画家として一代でこれだけの 収集ができたのは凄いとしか言いようがありません。

ところでこの美術館近くにある公営の駐車場は、自動販売機で望みの時間分の 駐車券を買い、印刷されたそれを車内の目に付く場所に置いておくのです。

このやり方は欧米諸国共通ですが、ここでは駐車券を購入する過程で 車の車両登録番号を入力させられるのです。

こんな面倒な事をさせられた事は、これまでは世界中でここだけ。

なぜ一時駐車の為に車両登録番号が必要なのか?

バイヨンヌはフランスのバスク地方の中心ですが、 バスクの人々は使用済みの駐車券の時間が残っていれば次の人に渡す親密さに 溢れているため、その防御のためというのでしょうか?