美術館訪問記-251 ピサロ美術館 

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ポントワーズの街

 添付2:ピサロ作「ポントワーズの風景」1874年
 スイス、レーマーホルツ・オスカー・ラインハルト・コレクション蔵

添付3:ピサロ作
「リンゴ採り」1886 大原美術館蔵

添付4:ピサロ作
「モンマルトル大通り」1897
エルミタージュ美術館蔵

添付5:ピサロ美術館

添付6:ピサロ作
「ポントワーズの市場」1895 リトグラフ

添付7:マティス作
「本のある静物画」1890

添付8:エドゥアルト・ベリアール作
「水路からのポントワーズの眺め」

添付9:ピサロ美術館からの眺め

添付10:ピサロ美術館の壁を這う蔦

パリの中心から25kmほど西北に行くとポントワーズという町があります。

RER-C線のポントワーズ駅で降りると、駅前広場から道が真直ぐなだらかに上がり 丘の上のサン・マクルー大聖堂へと続いています。

中世の街に迷い込んだような、他のフランスの町にはない異空間的な眺めです。

この丘の上の右手に城址があり、その中に「ピサロ美術館」があります。

ピサロについては第85回で触れましたが、3年以上前なので再述しましょう。

カミーユ・ピサロ(1830-1903)は印象派の中心人物で、全8回の印象派展に 参加した唯一の画家です。印象派の中では最年長であり、温厚な人柄で皆に慕われ、 気難しく人付き合いの悪かったセザンヌでさえ、師と仰いだほどでした。

彼の画家としての出発点は遅く、画家を志して生まれ故郷の、プエトルリコ近くの 当時はデンマーク領西インド諸島、現在のアメリカ領ヴァージン諸島、にある セント・トーマス島からパリに出て来た時には既に25歳になっていました。

この年に開かれたパリ万国博覧会に出品されたコローやミレーの作品に感銘し、 コローの自宅を訪れ、教えを受けたりしています。 彼の感化で戸外に出て太陽の光の下で絵を描くようになります。

余談ですが、錫製のチューブ絵具が発明されたのが1841年の事で、 ピサロが画家修業をする頃にはチューブ絵具を持って戸外で絵が描けるように なっていました。それまでは描く度に必要量の顔料を砕いて油で練る作業が必要で 室内で描くしかなかったのです。

ピサロは29歳でパリのサロンに初入選していますが、アカデミックなサロンに 飽き足らず、自由な学校アカデミー・シュイスに通います。ここは先生も誰もいず、 シュイスという人物が、モデルを雇えない画学生達のために、 モデル付きで自由に絵を描ける場を作り、提供したのです。

ここでセザンヌやモネと知り合い、後に印象派と呼ばれるグループを 形成していく事になります。ゴーギャンやカサットもピサロに学んでいます。

ピサロはやがてジョルジュ・スーラやポール・シニャックとも知己になり、 55歳から60歳ぐらいまで点描手法を試みていますが、時間がかかり過ぎるので、 止めています。晩年は風景画よりも人物画を描く事が多くなっていきました。

息子のリュシアン・ピサロ、リュシアンの娘オロヴィダも画家となっています。

カミーユ・ピサロは1866年から17年間、途中普仏戦争を避けてモネとロンドンへ 逃げた間を除き、ポントワーズに住んでいました。

彼はこの地でポントワーズの風景や、農民の生活を描き続けたのです。

またここには彼を慕うセザンヌやゴーギャンがやって来て、ピサロの教えを請い、 共に描いたりしています。

ピサロ美術館はピサロ生誕150年を祝って1980年にこの地に開館しました。

古い邸宅を流用した2階建てで、2階の3部屋だけが展示室になっている 小規模な美術館。

ピサロ美術館というからにはピサロ作品の羅列を期待して訪れたのですが、 案に相違して、カミーユ・ピサロの油彩画は1点もなく、デッサン2点と 版画3点があるのみでした。

これにはがっかりしましたが、ピサロと親しかったマティスが 生涯で2番目に描いたという油彩画が飾ってあったのには驚きました。

人生で初めて絵筆を執った次の作とはとても信じられない出来栄えで、 マティスの天才を納得させられた事でした。

他にはシニャックが1点と、ピサロに似たエドゥアルト・ベリアールや 地元の画家達とルシアン・ピサロの作品が並んでいました。

美術館の周りは、小さな公園になっており、高台にあるため、ここから見下ろす、 オワーズ川と対岸の新市街地やパリの街の眺めは素晴らしいものでした。