美術館訪問記-249 川崎市岡本太郎美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:岡本太郎作
「太陽の塔」 大阪府吹田市万博記念公園内

添付2:川崎市岡本太郎美術館全景

添付3:川崎市岡本太郎美術館入口棟

添付4:川崎市岡本太郎美術館エントランス

添付5:館内にあった岡本家の人々写真切り抜き像、
右から一平、太郎、かの子

添付8:岡本太郎作「母の塔」

前回の現代美術自選代表作15人展に含まれていた岡本太郎のための美術館が 川崎市にあります。「川崎市岡本太郎美術館」。

岡本太郎は流行語にもなった「芸術は爆発だ!」や1970年の大阪万国博覧会の シンボル「太陽の塔」の制作等で知らない人はいないでしょう。

彼は1911年川崎市の生まれで、父は漫画家の岡本一平、母は歌人で作家のかの子。

両親とも子供の面倒はみられず、二人とも異性関係が頻繁で、 ついには一平公認の下、かの子の崇拝者堀切茂雄と妻妾同居ならぬ、 夫間男同居をするに至っているのですから尋常な家庭ではありません。

それでも太郎は子供の頃から好きだった絵の道に進み、18歳で東京美術大学に入学。 ところがその年一平が朝日新聞の特派員として渡欧することになり、大学を中退し、 家族3人で渡欧。やがて両親は帰国しますが太郎はパリで暮らします。

語学の才能もあったようで半年後にはフランス語をマスター、ソルボンヌ大学で 哲学・民族学を学びます。

ある日、立ち寄った画廊で見たピカソの作品に衝撃を受け、 ピカソを超えることを目標に絵画に打ち込み、 1936年には初めての画集「OKAMOTO」を刊行。

1940年、ドイツ軍のフランス侵攻で帰国。10年余のパリ滞在でした。

帰国後徴兵され、初年兵として兵役に就きますが1946年、無事帰国。

以後は前衛芸術家として作品を発表するだけでなく、縄文土器の再評価や、 「芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものである」と説く啓蒙書の出版、 大阪万国博のテーマ館プロデューサーに就任、テレビ番組へのレギュラー出演等 目覚ましい活躍をしたのはご存知の方も多いでしょう。

80歳になると所有していた1779点を川崎市に寄贈。 1996年死去。享年84。

川崎市は1993年、市内の生田緑地に美術館建設を発表しますが、 自然保護活動家達による反対運動で岡本太郎生存中の建設はできませんでした。

川崎市岡本太郎美術館は1999年開館。

生田緑地は関東平野の西側では最初の丘陵で、川崎市というイメージとは異なり、 広さ179.3ヘクタール、約54万坪の緑豊かな自然公園で、雑木林に囲まれた中に、 岡本太郎美術館や民家園、プラネタリウム、伝統工芸館等が散在しています。

100本はあるメタセコイアの高木が立ち並ぶ、神社の参道と見まがう公園内の道を、 周囲の木々の四季折々に変わる風情を楽しみながら進むと美術館に行き当たります。

美術館の入口は外壁を階段状にして植物を植え込み、 周りの緑地に埋もれるように設計されています。 バリアフリーにするために後から造られたエレベーター塔だけが異様ですが。

狭い入口を入ると、吹き抜けのドーム天井のあるエントランスで 明るい陽光に照らされて岡本太郎作の彫刻「邂逅」が中央に鎮座しています。

ここから岡本太郎の世界へと引き摺り込まれていくのです。

意外と広い館内には、油彩画、壁画、ドローイング、写真、彫刻、レリーフ、 木や布、藤、陶、繊維強化プラスティック、アルミニウム等で造った数々の椅子、 ガラスや金属、革等の素材を使った灰皿、オブジェ、メダルに陶器、 「今日の芸術」「青春ピカソ」「日本の伝統」「美の呪力」「母の手紙」等の各種著作等、

岡本太郎の異才を物語る様々な作品が、これでもかと言わんばかりに並んでいます。

所々には太郎の生い立ちや生涯の活動を説明した幾つかのコーナーもあり、 ビデオも幾つか置かれ、太郎が日本語やフランス語で芸術論を語ったり、 制作現場を撮らせたりしています。

ここに来れば、例え岡本太郎について何も知らなかったとしても、 出口に達する頃には、強烈な自己主張を貫いた一人の日本人芸術家の存在を 意識せざるを得なくなり、彼の著作の一冊でも紐解いてみる気になる事でしょう。

(添付6:岡本太郎作「森の掟」、添付7:岡本太郎作「夜」 は著作権上の理由により割愛しました。
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