美術館訪問記-244 ユトリロ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ユトリロ美術館正面

添付2:ユトリロ美術館に飾られた「ユトリロとヴァラドン展」ポスター

添付3:シャヴァンヌ作
「聖なる森」 フランス、リヨン美術館蔵

添付4:ルノワール作
「町の踊り」 オルセー美術館蔵

添付5:ユトリロ作
「サントゥアンの画商の家」1908年

添付6:ユトリロ作
「サント・マルグリット教会」1910年

添付7:ユトリロ作
「モンマルトルの3風車」1950年

添付8:ヴァラドン作
「モーリス・ユトリロ」1921年

添付9:ヴァラドン作
「自画像」1927年

添付10:右からユトリロ、ユッテル、ヴァラドン 1920年

パリの中心から15kmほど西北に行くとサノワという町があり、フランス国鉄 SNCFのサノワ駅前の通りを1km近く歩くと「ユトリロ美術館」に着きます。

旧市庁舎だった建物で3階建て。なかなか風格があります。

ユトリロは日本人に人気があるようでモーリス・ユトリロ展が方々の美術館で 何度も開催されていますが、ユトリロ美術館に入って直ぐの場所に 2000年、東京大丸百貨店での「ユトリロとヴァラドン展」のポスターが 額に入れて飾ってありました。

モーリス・ユトリロは1883年12月、パリ、モンマルトルで シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれています。時にヴァラドンは18歳。

ヴァラドンも私生児で、美しく生命力に溢れた彼女は画家のモデルをしていました。

当時フランス画壇の大御所だったシャヴァンヌが彼女を気に入り、 7年間もモデルにしており、シャヴァンヌの「聖なる森」に描かれた10人ほどの 女性は全部ヴァラドンがモデルなのだとか。

ルノワールも彼女がひいきで彼の「町の踊り」のモデルはヴァラドン。

ヴァラドンは生涯ユトリロの父親が誰かは明かしませんでした。 ただ若い頃付き合っていたスペイン人の画家ミゲル・ユトリロが一時よりを戻した 1891年、モーリスを嫡子と認定し、以後ユトリロ姓を名乗る事になります。

奔放な生活を送っていたヴァラドンはユトリロを構う暇もなく、 母親に我が子を一任。ところがこのおばあさんはワインが大好きで、 ワインは健康によいと信じており、幼い頃からユトリロにも飲ませていました。

孤独だったユトリロは酒に溺れ、未成年ながらアルコール中毒に。 ヴァラドンはこの頃自分も画家になっていましたが、アル中治療の一助として ユトリロに絵筆を持たせます。

アル中で中学中退というユトリロは幾つかの仕事に就いたものの どれも長続きしませんでした。しかし一人で集中できる絵画は好みに合い、 この道に進路を定め、ヴァラドンの助言以外は独学で都会の哀感と詩情漂う 風景画を産み出していくのです。

1909年から1914年頃までがユトリロの白の時代と呼ばれ、 最も質の高い豊穣の時期でした。パレットに漆喰と石灰や砂を混ぜる事によって 年代を経た壁や石畳の質感と精緻なニュアンスを表現して見せたのです。

その後は色彩が鮮やかになり、人物が増えてきたり、絵葉書を見ながら描いたり、 評判のよい白の時代の絵を自分で模写したりするようになります。

1912年にユトリロの健康は悪化し、サノワのルヴェルテガ博士の病院に入院。 暫くして快復しますが、その後何度か入退院を繰り返しながら71歳で死亡。

アンソール同様、創作力が落ちるに連れ人気は逆に高まって行き、 1928年にはレジオンドヌール勲章も受章しています。

ユトリロはサノワの入院を幸福な時期として記録しており、治療の一環として 周辺に絵を描きに出かけ、サノワの街と近郊の絵を少なくとも150点残しています。

私達が訪れた日にはユトリロの作品が35点、ヴァラドンが6点、 若い頃はユトリロの2歳下の親友であり、後にはヴァラドンと結婚して義父となり、 ヴァラドンと二人でユトリロの絵を売って生活した アンドレ・ユッテルの絵も3点展示していました。