シャガールがステンドグラスを残した15箇所の内、最後の作品は イギリス、トンブリッジにある「チュードリー全聖人教会」にあります。
トンブリッジはロンドンの南東50km程の所にある町で、その郊外にある チュードリーという地区にこの教会は位置しています。
林と田園が広がる田舎にある、古びた小さな教会で周りには何もありません。 高い尖塔があるわけでもなく、木々の間に埋もれていて、 訪ねた時は道標のようなものもなく、見つけるのに苦労しました。
現在ではグーグル・マップにも載っており、道標等も整備されているようです。
誰もいない教会に入ると、シャガールの青に染まった室内の東壁の中央に、 圧倒的な存在感で、一目でシャガール作と判るステンドグラスが鎮座していました。
図柄も鮮明で、シャガール独特の透明感のある青色が全体を占め、 要所々々に使われた赤と黄、白が美しいハーモニーを奏で、 数あるシャガールのステンドグラスの中でも出色の出来栄えです。
見入っていると、深い悲しみと癒しを感じ厳粛な気持ちになって行きます。
我に返って周囲を見渡すと形は小粒になりますが、残り11箇所の窓全てが シャガールのステンドグラスで埋まっています。
ここは全ての窓がシャガール制作という世界唯一の教会なのです。
どうしてこんな寂しい場所にシャガールのステンドグラスがあるのか。
1963年、サラ・ダヴィグドル=ゴールドシュミットという21歳の娘が ヨット事故で水死してしまいます。
彼女の父親はイギリスの男爵で銀行の頭取、新聞社の会長、国会議員にもなった ユダヤ人で、トンブリッジの近くのサマーヒル・ハウスという 17世紀初建造の邸宅を所有していました。
サラはシャガールが好きで、1961年、母親と一緒にルーヴル美術館まで出かけて シャガールがイスラエルのシナゴーグの為に制作した12枚のステンドグラスの デザインの特別展示を見て来りもしていました。
サラの両親は娘の思い出と鎮魂のために、1枚のステンドグラスを チュードリー全聖人教会に寄贈する事を思い立ち、 同じユダヤ人のシャガールにその制作を依頼します。
知る人も少ない田舎の小教会のためのステンドグラス制作を ダヴィグドル=ゴールドシュミット夫妻の懇願で渋々承知したシャガールでしたが、 1967年設置のために、全聖人教会にやってきて気が変わります。
残りの11箇所の窓にガラスが入っているだけなのを見たシャガールは、 それら全てを自分のステンドグラスで埋め尽くす事を提案するのです。
イスラエルのシナゴーグのステンドグラスはシャガールの自信作でしたが、 人工光源による照明なのが不満でした。 自然の光による、時の移ろいと共に変わって行く風情を楽しみたかったのです。
シャガールはその後18年に亘って、こつこつと制作を続け、 最後の1点が完成したのは1985年の事でした。 この年、シャガールは97年の生涯を終えています。
ステンドグラスの図柄は晩年になるに連れ、具体的な対象物がなくなり 抽象化していくようでした。