美術館訪問記-236 国立マルク・シャガール美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ユーリ・ペン(シャガールのヴィテブスク在住時の絵の教師)作 「シャガールの肖像」1915年頃ヴィテブスク美術館蔵

添付4:国立マルク・シャガール美術館

マルク・シャガールは1887年、当時は帝政ロシア、現在はベラルーシ領の ヴィテブスクで東欧系ユダヤ人として生まれ育ちました。

父親は塩漬けニシンを運ぶ労働者、母親は雑貨商という貧しい家庭でしたが、 ユダヤ教の厳しい宗教的伝統に従う、規律ある穏やかな暮らしだったようです。

画家を志したシャガールはヴィナヴェルという後援者を得て、 彼からの奨学金で1910年、パリに出ます。

エコール・ド・パリと呼ばれたメンバー、モディリアーニやスーティン、 キスリング、ザッキン、ブランクーシ等が出入りする、モンパルナスの ラ・リュッシュ(蜂の巣箱)という芸術家たちの宿に落ち着いた彼は 当時の前衛画家達と交わり、ルーヴル美術館に通って腕を磨きます。

しかしルーヴルの古典美術もフォーヴィスム、キュビスム、未来派などの 前衛芸術も、彼が暮したパリの街もシャガールの心を捉えはしませんでした。

彼はアトリエにこもり、添付2のような、はるかな故郷の記憶につながる 甘美で抒情的な情景を描き続けたのです。

1915年故郷ヴィテブスクで彼の生涯を通じて最愛の女性ベラと結婚します。

その後起こったロシア革命による押しつけの社会主義リアリズムを嫌って 1923年パリに出たシャガールは1941年ナチの迫害によりアメリカへ亡命します。

1944年ベラの死という悲劇にみまわれ、一時的に筆を執れなくなりますが、 やがて回復。1947年フランスへ戻った後、1950年南仏に永住する事を決意し フランス国籍を収得します。

晩年は世界的名声を得て、各地での個展の開催、公共建築物のステンドグラスや 壁画、タピスリー、モザイク等の仕事に忙殺されるようになっていきます。

20世紀最後の巨匠と呼ばれた彼は1985年南仏サン=ポール=ド=ヴァンスで 永遠の眠りについたのです。

そのサン=ポール=ド=ヴァンスから東に10km程のニースに 「国立マルク・シャガール美術館」があります。 第228回のマティス美術館から南に1200m程の場所に位置します。

1966年シャガールはフランスへ旧約聖書の創世記をテーマにした 絵画シリーズの大作17点を寄贈します。当時の文化大臣アンドレ・マルローは これらの作品展示のため国立美術館の設立を決定。

ニース市が土地を提供し、シャガール本人も展示空間や庭の発案と配置を企画し、 美術館用に複数のステンドグラスや大モザイクなどを新たに作成したりしました。

美術館の開会式で、シャガールは「人生に必ず終焉があるなら、 我々も人生が続く限り、愛と希望の色でそれを彩らなければならない」 と述べています。

シャガールは1972年、寄贈した17点の絵画のための下絵やスケッチ、 その他の彫刻等を追加で寄贈。

1986年国はシャガール死後、相続人達が相続税として納めた絵画46点、 グラフィック379点の内幾つかをこの美術館へ寄託。 その後も寄贈や、美術館の買い付けなどで所蔵品は増加し、 現在ではシャガールの絵画、彫刻、ステンドグラス、モザイク、タピスリーに加え 205のエスキス(フランス語の絵画用語。作品の準備のための小さな下絵)、 グワッシュ画、105の版画、215のリトグラフィーを所蔵するまでになっています。

ニースの街を見下ろす高台の静かな住宅街にある美術館は 観光コースに組み込まれているようで、団体客が多く、 特に日本人の姿が目に付きました。

そのためか日本語の音声ガイドもあり、日本人には馴染みの乏しい創世記や 出エジプト記、ソロモン雅歌、旧約・新約聖書に題材を採った内容を じっくり味わうことができます。日本語の美術館本もありました。

宗教的内容に特化したこの美術館は別名 「国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館」とも呼ばれています。

ここはまた画家が生存中に開館し、画家自身が主要作品の展示方法を指示している 世界最初の個人美術館でもあります。

(添付2:シャガール作「私と村」1911年ニューヨーク近代美術館蔵、添付3:シャガール作「白い襟のベラ」1917年パリ、ポンピドーセンター蔵、添付5:シャガール作「人類の創造」、添付6:シャガール作「燃える茨の前のモーゼ」、添付7:シャガール作「ソロモン雅歌Ⅳ」、添付8:オーディトリアムにあるシャガール作ステンドグラス は著作権上の理由により割愛しました。
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