ボルティモアにはもう一つ素晴らしい美術館があります。
1934年開館の「ウォルターズ美術館」。
ウィリアム・ウォルターズとヘンリー・ウォルターズ親子のコレクションが 基になっています。
ウィリアムは酒類の卸業で財をなし、南北戦争時はヨーロッパに避難して 美術品の収集にあたり、戦争終結後は銀行と鉄道に投資して財を増やしたのです。
息子のヘンリーは鉄道王となり、巨万の富を築き、コレクションを拡大し、 1909年には現在美術館のある場所に宮殿のような屋敷を建てて収納しました。 彼は22000点に上る収集品と屋敷をボルティモア市に遺贈。
その後の寄贈により現在は3万5千点余りの収蔵品を誇る大美術館になっています。
入口を入って直ぐの場所が4階までの吹き抜けとなっており、 そこに配置されたステンレス製の螺旋階段が近代的な美を形づくっています。
古代ギリシャの像やエジプトのミイラ、イスラムの写本や中世の象牙の彫刻、 古代ローマの石棺、膨大なコレクションを誇る彩飾写本、アジアの上質な美術品、 世界初の印刷書籍等も展示されていますが、絵画コレクションも圧巻です。
ロレンツォ・モナコに始まり、フィリッポ・リッピ、ネーリ・ディ・ビッチ、 ベッリーニ、クリヴェッリ、ルカ・シニョレッリ、ペルジーノ、カルパッチョ、 ピントゥリッキオ、ソドマ、ポントルモ、ブロンズィーノ、ヴェロネーゼ、 エル・グレコ、グイド・レーニ、リベーラ等きりがありません。
近代絵画もアングル、アイエツ、コロー、ドラクロワ、ドーミエ、ミレー、 クールベ、ブーダン、シャヴァネス、ブグロー、ロセッティ、ミレイ、ピサロ、 マネ、ドガ、アルマ=タデマ、シスレー、モネ、カサット等負けてはいません。
数ある中から、これまで紹介して来なかった画家を二人、採り上げましょう。
ネーリ・ディ・ビッチ(1419-1491)はフィレンツェで活躍した ルネサンス期の画家で、父はビッチ・ディ・ロレンツォ、 祖父はロレンツォ・ディ・ビッチという紛らわしい名前の3代に亘る画家の家に 生まれています。
3人の画家達はイタリアだけでなく欧米の美術館では見かける事が多いのですが、 祖父は77歳、父は79歳まで生きた長寿の家系で、沢山描き、 それだけ長い年月をくぐり抜けて生き残った作品も多いのでしょう。
ネーリ・ディ・ビッチが生きていた頃はフィリッポ・リッピやボッティチェッリ、 ギルランダイオ等錚々たる巨匠達がフィレンツェで活躍しており、 彼等に比べれば、ネーリは2流、3流とも言えましょう。
にもかかわらず、ネーリが代々続いた工房を経営し、十分な注文を取り、 現在にまで多くの作品が生き延びてきているのには 職人芸に徹した彼の芸術に共感する人々がいたからでしょう。
ルネサンス華やかな時期に、ネーリの絵は国際ゴシックを色濃く残し、 構図も伝統を守って新味はありませんが、 彼の描く鼻筋が通り上瞼の厚い人物達には何とも言えぬ愛嬌があり、 彼の絵に出くわすと思わず口元が緩むのです。
それにこの絵の色使いは、5色の天使を円状に配し、 洗礼者ヨハネに眼も鮮やかなピンクのガウンを持たせた所など、彼にしては斬新で、 必死にマンネリを打破しようとするネーリの試みが窺えます。
もう一人はジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)。
フランス・アカデミック美術の王道を歩んだ画家で彫刻家。
23歳でパリのサロンで銅賞を獲ったのを始め、 41歳でフランス学士院のメンバーになり、王立美術学校の教授に就任。
フランスからはレジオンドヌール勲章、イギリスからは王立芸術院の名誉会員、 プロイセン王ヴィルヘルム1世からは赤鷲勲章三等、を授けられるなど 栄華の頂点を極め、フランス美術界に君臨しました。
彼の死を悼んで行われたミサには前大統領や著名な政治家、芸術家、作家が 多数出席する大物で、当時は人気を博した大芸術家でした。
このウォルターズ美術館にもジェロームの油彩画が8作ありますが、 彼の作品は世界中の美術館で観る事ができます。
ジェロームは保守派のアカデミアンらしく新しい潮流は理解できず嫌い抜きました。 サロンの審査員として印象派作品の入選を認めず、 カイユボットの印象派のコレクションが国家に寄贈されることになった時には、 その受け入れを阻止するため大反対したほどだったのです。
しかし印象派やフォーヴィスム、キュビスム、シュルレアリスム等、 次々と出現した近現代絵画の流れの中で人気を失い、忘れ去られていきました。
現在は前衛芸術に対する反動としてアカデミック絵画が再評価され、 ジェロームの人気も復活しつつあります。
緻密で劇的、細部まで入念に仕上げられた彼の絵画は、評価するに十分でしょう。
この美術館には橋口五洋の美人画浮世絵なども展示されていました。 タイトルを英語と日本語で併記しているのが、欧米諸国では珍しい。