美術館訪問記-228 ニース、マティス美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:マティス美術館正面

添付2:マティス美術館内部

添付3:マティス作
「フヌイエの家」1898年

添付4:マティス作
「パラソルの女」1905年

添付5:マティス作
「小さなピアニスト、青い服、赤い側板」1924年

添付6:マティス作
「ザクロのある静物」1947年

添付7:マティス作
「青いヌード」1952年

添付8:彫刻するマティス

添付9:マティス作
「ヘンリエッテ ㈽」1910-13年

これからはモーダーゾーン=ベッカーやジョージア・オキーフの美術館のように 特定の画家のためのみの美術館について、暫く書く事にしましょう。 例によって途中であちこち話は飛んで行くかもしれませんが。

先ずはどなたも御存じの、マティス。

アンリ・マティス(1869-1954)はフランス、ル・カトー=カンブレジの生まれです。 パリの北北東150km近い場所にある、ベルギー国境近くの人口7000人ほどの町です。

マティスは法律家を目指していましたが、20歳の時盲腸炎をこじらせ入院します。

この時母親が退屈しのぎにと手渡した画材が彼の人生を変えました。

彼はそれまで絵には全く興味がなかったらしいのですが、一旦絵筆を執ると、 「生まれて初めて自由で平和な世界に行ったようだった。 まるで天国を見たようだった」と後に記述する心境になります。

画家になる決心をした彼は猛反対の父親を説き伏せ、 パリに出て国立美術学校を受験しますが失敗。 しかし、マティスの熱意を評価したギュスターヴ・モロー教授から 特別に個人指導を許され、彼の教室で学んでいたルオーとは生涯の友になります。

生徒の自主性を重んじたモローは、 マティスに「君は絵画を単純化するだろう」と言ったそうですが、 当初シャルダンを尊敬し彼の絵の模写をしたりしていたマティスは、 シニャックの影響で点描技法を試みたりした後、 マルケやドラン、ヴラマンクらと交際する頃から自由な色彩表現に目覚め、 彼等と共にフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれるようになります。

これは1905年、パリのサロン・ドートンヌの展覧会でマティス等の出品作品の 原色を多用した強烈な色彩と、荒々しいタッチを見た批評家のルイ・ボークセルが 「あたかも野獣(フォーヴ)の檻の中にいるようだ」と言った事からきています。

フォーヴィスムはルネサンス以降の伝統的な写実主義から決別し、 目に映る色彩ではなく、画家が心に感じる色彩を表現した事で画期的な運動でした。

フォーヴィスムの期間は3年程で、 マティスが「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」と言ったように、 単純化された色面の効果を独自に追求する、 穏やかで心地よい作品を描くようになります。

マティスは絵画だけでなく、デッサン、版画、彫刻、陶器なども制作しました。 晩年は、単純化された色面の到達点とも言える切り紙絵を多く制作しています。

1917年以降、マティスは南仏ニースに移り住み、1954年その地で死亡。

ニースの高台、シミエにはローマ時代の円形闘技場の残る公園があり、 その中に「マティス美術館」があります。

1963年開館の国立美術館で、17世紀に建てられたジェノヴァ風邸宅。 赤茶の外壁、黄色に彩られた窓、木々の緑と空の青に映える館は、 それ自体が素晴らしい景観を作り出しています。

3階建てですが地下に壮大なホールがあり、ここは企画展に使われています。

常設展はマティス本人や家族、知人からの寄贈品、国の所有品から成り立っており、 絵画68点、デッサン236点、版画218点、彫刻57点、写真95点、 オブジェ187点、マティスが挿し絵を描いた本14冊、陶器の他、 マティスが下絵を担当したタペストリー、ステンドグラスと資料類等膨大です。

特にマティスが最晩年死力を尽して完成させた ヴァンスのロザリオ礼拝堂用の一部屋には、彼がデザインしたステンドグラス、 一筆書きのような壁画、司祭のマント、十字架、聖母子像などの習作が並べられ、 それらすべてがエネルギーに満ち満ちていて、 当時画家が80歳近くだったことが信じられないほどです。

マティスの作品には、 「色彩の魔術師」と呼ばれた華麗な色使いとシンプルな構図の中に ゆったりとした心地よさとポジティブな力強さが感じられるのです。