美術館訪問記-209 フェニックス美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:フェニックス美術館入口

添付2:ヴィジェ=ルブラン作
「マダム・ヴィクトワール・ド・フランス」

添付3:ヴィジェ=ルブラン作
「マリー・アントネットの肖像を描くヴィジェ=ルブラン」
この時彼女は35歳、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館蔵

添付4:コロー作
「川辺」

添付5:ヴュイヤール作
「寝室風景」

アリゾナ州の州都フェニックスは人口154万人(2014年調査)。 全米でも6位に入る大都市です。

この街の北側に「フェニックス美術館」があります。

ここは、収蔵作品が1万8000点以上にも及ぶアメリカ南西部最大の美術館。

そのコレクションは極めて幅広く、古今東西の様々な作品が展示されています。

ギャラリーは「アジアの芸術」、「アメリカとヨーロッパの芸術:1900年以前」、 「我々の時代:1900年以降」の3つに分けられ、展示されていました。

総合美術館でかなりのものが揃っていますが、オールド・マスターは少なく グエルチーノ、ドルチ、ピアツェッタ、グルーズぐらいでした。 アメリカの美術館ではよく見かけるヴィジェ=ルブランも1点ありました。

ルイーズ=エリザベート・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)は 数奇の運命を辿った画家です。

画家ルイ・ヴィジェの娘としてパリで生まれ、父親から絵画の手ほどきを受けます。

12歳の時、父が亡くなり、母親は裕福な宝石商と再婚。 エリザベートはグルーズ等の大家に学びながら腕を磨き、 15歳で肖像画家として一本立ちする程の画才を発揮します。

20歳で、商才のある画商のピエール・ルブランと結婚した彼女は、 王妃マリー・アントワネットの肖像画を描き、彼女を大変気に入った王妃は、 その後、子供達も含めた肖像画を20点以上も残すほどで、 画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれます。

このため、1789年のフランス革命で王族が逮捕された時には、 イタリアからオーストリア、ロシアと逃亡生活を送りますが、 どこの宮廷でも歓迎され、各地のアカデミー会員にもなっています。

3年後にはフランスに戻りますが、ヨーロッパの上流階級からの要望で イギリスやスイスを訪れて彼等の肖像画を描いた後、 王政復古後のルイ18世に迎えられ、フランスに定住します。

彼女は2度に亘って「回想録」を出版しており、 動乱の時代を生き抜いた才女による貴重な記録となっています。

フェニックス美術館では他に、 コローの4作、ヴュイヤールの見事な室内画、 バルビゾン派のディアズ・ド・ラ・ペーニャのヴァトーに見紛う道化師の絵、 トーマス・デューイングの抒情漂う女性像等が、印象に残るものでした。

森村泰昌の、モナリザの背景に妊婦のモナリザ風のヌードの絵と、 岩窟の聖母の背景に前絵の妊婦の腹の中を見せた絵もありました。

アリゾナの鉱夫の家に生まれ、その生活を多く描いたルー・デイヴィスと、 彼と2人でアリゾナ初のアートセンターを設立したフィリップ・カーティスが、 地元の画家として気を吐いていました。

フィリップ・カーティスはミシガンで生まれ育ったのですが、1936年、 連邦政府の派遣で初めてアリゾナ州を訪れます。 アリゾナで初のアートセンターを設立するためでした。

このプロジェクトが、後にフェニックス美術館になるのです。

その時の訪問でアリゾナの地に魅せられたカーティスは、1947年、 40歳の時にアリゾナに戻り、定住します。

その後、2000年に93歳で亡くなるまで、ずっとアリゾナに住んで 制作と後身の育成にあたりました。 アリゾナのアーティスト・コミュニティを育て、支えた人だったようです。

彼の作品は、基本的にシュルレアリスム。 無表情の人物が立ち並ぶ様子は、マグリットを思わせますが、 その造型世界は彼独自のものです。

彼の絵をまとめてみることが出来るのはフェニックス美術館だけのようで、 特別に1室が宛がわれていました。

(添付6:森村泰昌作「第3のモナリザ」、添付7:ルー・デイヴィス作「鉱山キャンプで暮らす少年」、添付8:フィリップ・カーティス作「贈り物を持つ男達」、添付9:フィリップ・カーティス作「到着」は著作権上の理由により割愛しました。
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