美術館訪問記-206 エル・パソ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:エル・パソ美術館外観

添付3:ムリーリョ作
「エッケ・ホモ」

添付5:クリヴェッリ作
「祝福するキリスト」

添付6:ボッティチェッリ作
「聖母子」

添付7:ラヴィニア・フォンターナ作
「キリストと受難のシンボル」

前々回のジョージア・オキーフ美術館を訪れた後、来た道を戻って アルバカーキ空港に戻り、フェニックス空港へ飛び、飛行機を乗り換えて エル・パソ空港へ着いたのは深夜の12時。

アルバカーキからエル・パソに飛ぶ便がないので、 迂回航路を採らざるを得なかったのです。

24時に閉まるレンタカー会社の受け付けは快く貸し出し処理をやってくれました。

リオ・グランデ川を国境線として、メキシコと接する町、エル・パソ。

町の中心にある「エル・パソ美術館」の前には、 メキシカンカウボーイの勇姿を象った、大きな彫刻が置いてありました。

朝9時の開館時間に入場したのは私一人。 結局退館するまで他の入場者は見かけませんでした。

1階は、売店と狭い特別展用スペースで、写真や現代彫刻が展示されていました。

2階はかなり広い展示場で、大半が常設展用、左奥が特別展用スペース。

美術館は入場無料ですが、特別展は有料です。

2階の常設展会場入口は、トム・リー(1907-2001)ギャラリーとなっており、 これが、エル・パソの陽射しのように強烈に明るく、クリアな絵で印象的でした。

彼はエル・パソの市長の息子として生まれ、 著名な作家、画家、イラストレーター、壁画家、従軍記者、歴史家でした。

右手の小部屋に、スルバラン、ムリーリョ、ユアン・デ・ヴァルデス・レアルが 並んで掛かっています。 スルバランは些か怪しいと感じましたが。

その右手に小部屋が2つあるのですが、改修中のようで閉まっていました。

何とここがオールド・マスターの部屋というのです。 よりによってこんな時に工事中で閉鎖とは。

常設展示では、カナレットの立派な絵とロレンツォ・ティエポロ、リゴー等の クラシックに加え、ステュアートやチェイス、ハッサム、ヘンリエッテ・ワイエス、 ミルトン・エイヴリー、マックス・ウェーバー等のアメリカ人画家の作品も 多くありました。

特別展では、「モネからマティスへ」と題して、テネシー州、メンフィスにある ディクソン・ギャラリーから、コローからマティスまで、 25人の優れた画家達の作品が来ており、素晴らしい内容でした。

一通り見て売店に行くと、1週間前に出来上がったばかりという、 ハードカバーのオールド・マスター本があります。

中を見ると、クリヴェッリ、ボッティチェッリ、フィリッピーノ・リッピ、 リベーラ等のよい絵が並んでいます。

流石にもう一度ここまで来る事は考え難く、これらが見られないのは惜しいので、 2階の受付へ行き、何とかならないか、と聞くと、 学芸員を連れてきてくれ、閉鎖中の部屋を案内してもらう事ができました。

巨匠の作品に加え、第4回で紹介したソフォニスバ・アングイッソーラに 強い影響を与えた女流画家、ラヴィニア・フォンターナの今に残る最初期の作品、 1576年に描かれた「キリストと受難のシンボル」や、 ペルジーノの師匠だった、ベネデット・ボンフィリの3連祭壇画の中央の絵もあり、 両端の2枚はスペインのモンセラット美術館にあるのだとか。

学芸員に、どうしてこんな辺境の町に、これだけ素晴しいオールド・マスターが あるのか尋ねると、全てサミュエル・クレスのお陰だ、と言いました。

サミュエル・クレス (1863-1955)は17歳で教師の資格を取り、 教師となって稼いだ金で、24歳の時に文具店を開きます。

この利益を基に、33歳で、100円ショップのような店を、クレス商会として開き、 当時都市に集中していた他店と異なり、 発展性のある29の州の小都市に展開したのです。

これらが大当たりで、 特徴あるクレス商会の建物は、各地のランドマークとなっていきました。

クレスは生涯独身で、子供はいません。

1920年代にメトロポリタン美術館前のペントハウスに移り住んだ彼は、 頻繁に同美術館に通い、多大な貢献をすると同時に、自身でも、 主としてイタリア・ルネサンスからバロック絵画までの作品を収集しました。

当時、これらの絵画・彫刻は時代遅れと見做されており、価格も安く、 彼は容易にコレクションを拡大できたのです。

1930年代に、彼は生きている間に自分のコレクションを、富の源泉となった 小都市に寄贈することにし、90以上の団体に寄贈しました。

多くの団体は、この寄贈作品を基に、美術館を開館したのです。

エル・パソ美術館も、その内の一つのようです。

アメリカの美術館では、注意して見ると、 サミュエル・クレス寄贈という表示が、頻繁にみつかります。

特に1941年には、ポール・メロンと2人で国に大量(クレス自身は1800点)の 寄贈をし、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが設立されたのです。