美術館訪問記-199 造形美術アカデミー絵画館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:造形美術アカデミー絵画館、手前はシラーの像

添付2:造形美術アカデミー絵画館内部

添付3:マルティン・クアダル作
「アントン・ランベルク=スプリンツェンスタイン伯爵の肖像」

添付4:ボス作
「最後の審判」

添付5:ボス作
「快楽の園」
マドリード、プラド美術館蔵

添付6:ボッティチェッリ作
「聖母子と2天使」

添付7:ルーベンス作
「ボレアスのオーレイテュイアの略奪」

添付8:ティツィアーノ作
「タルクィヌスとルクレティア」

ウィーンには、あのアドルフ・ヒトラーが、若い頃に画家を志して、 2回受験して、いずれも落第し、 正規の美術教育に対する強い復讐心を残す事になった、学校があります。

ヒトラーはオーストリア生まれのオーストリア人で、 ドイツ国籍を収得するのは1925年、36歳の時です。

同時に受験して合格したのが、エゴン・シーレで、 ヒトラーは、後に、シ―レ等の世紀末芸術を、退廃芸術として、 アカデミーもろとも、徹底的に弾圧することになるのです。

この学校が、1692年創設の、ウィーンで最も伝統と格式のある美術学校、 ウィーン美術アカデミー。

前々回のオットー・ワーグナーもこの学校の卒業生。

この学校の校舎は、美術史美術館から2ブロック、 ドイツの文豪シラーの像が立つ、シラー公園の前に建っています。

3階建てのネオ・ルネサンス様式の矩形の大きな建物です。

正面入口には、上に彫像を置いた6本の円柱が立ち、赤茶のレンガ造りの校舎の 2,3階には、ガラス窓と彫像が交互に配されています。

いかにも歴史ある美術学校といった佇まい。

この建物の3階に、「造形美術アカデミー絵画館」があります。 1822年に、アントン・ランベルク=スプリンツェンスタイン伯爵の 800点にものぼる絵画コレクションが遺贈され、 その遺贈条件が一般公開する事とあったために、設立された美術館です。

ここの圧巻は入口奥、正面の部屋にある、ボスの「最後の審判」。

プラド美術館の「快楽の園」と似通う、3連祭壇画で、 中央が最後の審判と七つの大罪。右翼が地獄、左翼が楽園。

ヒエロニムス・ボス(1450-1516)ほど、奔放な想像力を駆使して、 全く前例のない怪奇と幻想に満ちた世界を構築した画家はいないでしょう。

彼はオランダのスヘルトーヘンボスの生まれで、 本名ヒエロニムス・ファン・アーケン。

生誕地の名にちなんでボスと称しました。 (ボスのドイツ語読みボシュから、ボッシュと呼ぶ人もいる。)

祖父、父と3代に渡る画家で、堅実に画業を受け継ぎ発展させ、 裕福な家系の妻を娶り、おかげで街の富裕層が集う聖母マリア兄弟会の メンバーとなり、名士として活動していたようです。

彼の描く主題は宗教関係に限られますが、当時から彼の特異な画風は、 国際的に好まれたようで、諸外国の王侯貴族からの注文も多かったとみられます。

しかし、宗教関係に限られたために、ボスの死後吹き荒れた宗教改革による 偶像破壊運動で被害に遭い、1629年、カトリック教区だったスヘルトーヘンボスは、 オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの軍門に降り、街は大破。

多数あったとみられるボスの作品は消失してしまったのです。

第31回で触れた、スペイン王のフェリペ2世はボスの熱心な収集家で、 彼が16世紀半ばから集めてくれた8点は、 現在、マドリードのプラド美術館の宝となっています。

他にはクラナッハの「ルクレティア」他5点、 ボッティチェッリの「聖母子と2天使」、 ルーベンスの「ボレアスのオーレイテュイアの略奪」、 フランチャの「聖母子と聖ペトロニウス、聖ルカ」、 ティツィアーノの「タルクィヌスとルクレティア」等が、印象的でした。

特にティツィアーノの作は、彼の最晩年のもので、激しい動きのドラマティックな 場面を、この時期に特有な粗いタッチで表現しており、 85歳頃の画家の到達点を見る様で、興味深いものでした。