シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館の裏の公園を抜けて 50mも行くとネオ・クラシックの立派な建物があります。
これが「ヴィンタートゥール美術館」。
ここは1作あるドラクロワ以外はピサロが一番古い所蔵作家という、近現代美術館。
オスカー・ラインハルト以外のヴィンタートゥールの資産家達の寄贈品と、 この美術館を支えるギャラリークラブ・メンバーの支援金で購入した作品を展示。 1916年の開館です。
2階建てで、1階は主にオフィスと2部屋の企画展用の部屋。
2階には、9部屋の近代美術展示室があり、ガラス張りの新しく造られた 現代美術展示棟に渡り廊下で接続されています。こちらには12部屋。
2009年から改修工事に入り、所蔵作品が世界各地を巡回しましたが、 2010年に世田谷美術館で開催された「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」 という企画展に行かれた方もおられるでしょう。90点来ていました。
その時ポスターを飾っていたのが、ゴッホの「郵便配達人 ルーラン」。
ゴッホならではの強烈な色彩でアルル滞在時に親しくしていた友人を描いています。
手元不如意でモデルが雇えなかったゴッホが、彼を題材に4作描いた中の一つ。
印象派やナビ派のメンバーやゴーギャン、ルソー、マルケ、ヴラマンク、ユトリロ、 ピカソ、ブラック、レジェ、マグリット、モランディ等も来ていました。
ルドンの「読書する僧」も来ていた中では印象深い作品です。
前回述べたホドラーも3作来ていましたが、 この美術館にある、彼の最高傑作、「無限を求めて」はなかった。 138 x 245cmと大き過ぎたためもあるのでしょう。
この「無限を求めて」にはホドラーの特徴の一つが良く出ています。
人物を並べた垂直線の重なる律動感の強調と、姿態の運動感。特に身体のひねりと 首の傾き、腕と手の形づくるフォームには注意が払われています。
スイス人の彫刻家で最も有名なのは、アルベルト・ジャコメッティでしょうが、 彼の父ジョヴァンニ・ジャコメッティ(1868-1933)も、 ホドラーやアンカーと同じくらい、スイスの美術館では見かけました。
シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館にも6点展示されていました。
ジョヴァンニは、18歳でミュンヘンの美術工芸学校に入学し、クーノ・アミエと 生涯の友人になり、二人でパリに出て印象派の手法を学びます。
アミエは色彩を形態に優先する、スイス初の画家で、近代美術のパイオニアと 遇されており、スイスでは勿論、欧米の美術館でもよく目にします。
ジョヴァンニは、23歳で資金が尽きてスイスに戻り、肖像画等を描いて身過ぎをし、 ローマやナポリに旅して、イタリアの古典を学んでいます。
26歳で会った、10歳上のセガンティーニに心酔し、師事します。
32歳で師の死に直面し、以後は独自の道を切り開いていきます。
彼は近代フランス美術とイタリアの芸術資産の融合者と見做されており、 その点で20世紀のスイス画壇の革新に寄与したと考えられているのです。
この美術館にはもう一人、スイス出身の近代画家としては、 おそらく国際的に最も評価の高い、ヴァロットンの作品が7作あります。
その内5点は日本の展覧会にも来ていましたが、どういう訳か私が最も気に入った 2点、「白人と黒人」と「藁敷きのバスケットに盛ったリンゴ」はありませんでした。
フェリックス・ヴァロットン(1865-1925)は、スイス、ローザンヌの中流家庭の出で、
古典研究の後、16歳でパリに行き、アカデミー・ジュリアンで学ぶ傍ら、 ルーヴルに足繁く通い、ホルバインやデューラー、アングルに惹かれたようです。
20歳で、パリのサロンで名誉賞を受ける等、順調に画家としてのスタートを切り、 1890年、パリで開催中の日本版画展を見て、大きな影響を受けます。
その後木版画に手を染め、それまで絵画を安く流布するための複製にすぎなかった 西洋の版画を独創的な作風で革新し、木版画のリーダーと目されるようになります。
アカデミー・ジュリアンの仲間だったボナールやドニ、ポール・セリュジエ等の ナビ派に参加し、「外人のナビ」と呼ばれました。
ヴュイヤールも含めたナビ派のメンバーは生涯の友となっています。
1900年にはフランスに帰化。その頃から油彩画に専念するようになります。
古典の素養と木版画の経験に基づく彼の絵には、 安心感と共に、ドキリとするような新鮮さを感じるのです。
ここには、ロダンやマイヨール、アルベルト・ジャコメッティ等の彫刻家の作品に 加えて、ドーミエ、ドガ、ルノワール、ルノワールとギノの合作、ヴァロットン等 画家の彫刻作品も展示されています。