美術館訪問記-192 シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館正面

添付2:シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館内部

添付3:カスパー・フリードリヒ作
「リューゲン島の白亜の断崖」

添付4:アンゼルム・フォイエルバッハ作
「イピゲネイア」

添付5:ホドラー デザインのスイス50フラン札 

添付6:ホドラー作
「夜」

添付7:ホドラー作
「エヴォルデスからの道」

添付8:アンカー作
「画家の娘ルイーズ」

オスカー・ラインハルトが生まれ故郷のヴィンタートゥール市に寄贈した 美術品が主の「シュタットガルテン・オスカー・ラインハルト美術館」は、 前回のレーマーホルツとは異なり、市の目抜き通りに面した3階建ての建物。

昔の校舎を改造したとかで、内部は斬新な構造になっています。

ここにはドイツロマン派の巨匠カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの 「リューゲン島の白亜の断崖」や、古典主義のアンゼルム・フォイエルバッハの 「イピゲネイア」のようなドイツ人画家の傑作もありますが、 中心はスイス人画家達で、中でもホドラーの作品は27点もあります。

フェルディナント・ホドラー(1853-1918)は、日本ではあまり知られていない ようですが、真の美術愛好家だったオスカー・ラインハルトのコレクション中 一画家の作品数では最大である事でもお判りのように、 スイス人画家では、最も著名な画家の一人です。

それも道理、彼の作品はスイス紙幣を飾っていたこともあり、 スイス人や、スイスを旅する人達は、日々の生活のなかで彼に接していたのです。

ホドラーもセガンティーニ同様薄幸の育ちで、7歳で父を13歳で母を結核で亡くし、 5人の兄弟姉妹もみんな結核で早死しました。貧困による栄養失調が原因でした。

15歳で観光客用に風景画を描く画家の下で徒弟奉公し、18歳でそこを逃げ出し、 歩いてジュネーヴへ行き、画家として暮らし始めるのですが、なかなか芽が出ず、 37歳で描いた「夜」がジュネーヴ市当局から公序良俗に反するとして、 展示拒否にあった事が、逆に彼が世に出るのを助けた形になりました。

このスキャンダルを謳い文句にパリのサロンに応募し、そこでは歓迎されたのです。

ホドラーの作品はスイスだけでなく、欧米の美術館でも多くみかけます。 肖像画や自画像、歴史画、宗教画もありますが、 何と言っても、スイスの自然を描いた風景画が彼の真骨頂でしょう。

ここにある「エヴォルデスからの道」は、東山魁夷の出世作「道」を想い起させます。

この美術館で最も愛されている、アンカーの「画家の娘ルイーズ」にも 触れておかねばならないでしょう。

アルベルト・アンカー(1831-1910)は、スイスの国民的画家で、 ホドラーと人気を二分しています。

日本人の好きなセガンティーニは、スイスの画家と勘違いしている人もいますが、 イタリア人です。

この美術館にもアンカーは11点ありますが、セガンティーニは1点しかありません。

アンカーはスイスのフランス語圏で育ち、神学を学んでいましたが、 23歳で画家になる決心をして、パリに出、 スイス人画家シャルル・グレイユの指導を受けます。

グレイユはモネやルノワール、シスレーの師でもありました。 しかしアンカーは、印象主義とは一線を画し、リアリズムに徹しました。

パリの官立美術学校を6年かけて卒業し、両親の家の屋根裏部屋にアトリエを設え、 定期的にスイスとパリでの展覧会に参加しました。

アンカーは、冬はパリで過し、何度かイタリアやヨーロッパ各地を旅しましたが、 彼の描く主題は、家族やスイスの農村の平和な日常生活が殆どで、 健康的で道徳的。

国民的画家として愛されたゆえんです。

彼は6人の子宝に恵まれ、内4人が育ちました。彼は子供達を頻繁に描いています。

この美術館にある「画家の娘ルイーズ」も、長女の9歳のルイーズを描いたもので、 この絵を観て、心緩まぬ人はいないでしょう。

アンカーが、スイス以外であまり知られていないのは、 スイス人がアンカーの絵を好み過ぎたためで、殆どがスイス国内に所蔵されており、 海外に流出した作品が乏しいからなのです。