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美術館訪問記 No.18 国立マルケ美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

ラファエロ作「貴婦人の肖像」

ドゥカーレ宮殿

ピエロ・デッラ・フランチェスカ作
「フェデリコ・ダ・モンテフェルトロとその妻」
ウフィツィ美術館蔵

ピエロ・デッラ・フランチェスカ作
「キリストの鞭打ち」

ピエロ・デッラ・フランチェスカ作
「セニガッリアの聖母」

前回のローマ、サンタンジェロ城の「盗難作品展覧会」で、他の作品は1室に何作も展示されているというのに、1室1作だけが飾られている部屋がありました。

これがラファエロの「貴婦人の肖像」。 イタリア、ウルビーノにある「国立マルケ美術館」の出品でした。 この絵も1975年に盗難にあい、1976年に取り戻されたとのこと。

しかし絵とはこうも見る時と場所によって違うものでしょうか。 ウルビーノで観た時は、 冷たく取り澄ました町娘という拒絶感を覚えたものでしたが、 今回観ると、まるで生身の人間のよう。 衣装、手、肌の表現が実に自然で、身体は斜め3/4にし、 こちらを見ている眼差しはまるで包み込むようで、癒しを感じさせます。

実際、絵を観ている間に、長旅の疲労感は吹っ飛んでしまいました。

ラファエロ・サンティ(1483-1520)はレオナルド・ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロと並び、ルネサンス三大巨匠の一人と言われ、 ルネサンス美術を完成させた古典主義絵画の祖とみなされています。

ウルビーノの宮廷画家の父ジョヴァンニ・サンティはラファエロが11歳の時に死亡。 ラファエロは当時の流行画家だったペルジーノの下で修業します。 ラファエロの天才は、誰の絵と技法であれ、直ちに自分の物にできたことです。 修業時代のラファエロの絵は師のペルジーノと区別がつかないものもあります。

その後、フィレンツェに出てダ・ヴィンチを訪れた時は、忽ち彼の技を習得し、 当時ダ・ヴィンチが描いていたモナ・リザを模倣した絵を残しています。 ダ・ヴィンチはラファエロを可愛がったようですが、 ミケランジェロは、直ぐに自分そっくりの絵を描いてみせたラファエロを、 気持ち悪がって嫌ったとか。

このフィレンツェの4年間でラファエロは前人の技法を統一した、 ルネサンスの集大成というべき、自分の画風を確立します。

その天才ぶりは時の教皇ユリウス2世に認められ、1509年からローマに出て、 ヴァチカン宮殿の壁画をまかされるまでになります。 この時は既に描かれていた昔の大家の絵を塗り潰して、 上描きするよう求められたのですが、師のペルジーノが描いた天井画だけは、 手をつけずに残してあります。

彼は社交的でマネージメント能力も長けていたようで、多くのパトロンを持ち、 ヴァザーリによると50人ものスタッフを抱えた、当時最大の工房を経営。 1514年にはサン・ピエトロ寺院の主任建築家に任命される等、 画家として望みうる限りの富と権力を手中にします。

前途洋々たる中、37歳の若さで死亡してしまうのです。 熱病とも、モテ過ぎによる性病とも言われます。

ところで、国立マルケ美術館はモンテフェルトロ公フェデリコが1465年に建てた、 ルネサンスの記念碑的建築でそれ自身が芸術作品の、 ドゥカーレ宮殿内の2, 3階を占めています。

フェデリコと言えば、フィレンツェのウフィツィ美術館で、第6回で紹介した 特徴ある鉤鼻をした「フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ」とその妻の肖像画を、 お互いに向き合うプロファイル(横顔)で見た方もおられるでしょう。 一度見たら忘れられない強い個性を持った2人の横顔です。

その作者、ピエロ・デッラ・フランチェスカの不朽の名作「キリストの鞭打ち」と 「セニガッリアの聖母」がここにあります。

他にもウルビーノで生まれ育ったラファエロがもう1点、 ルカ・シニョレッリ、ティツィアーノ、ジョヴァンニ・ベッリーニ等に加え、 ウッチェッロが6点もありました。

ラファエロとフランチェスカの作品だけは防弾ガラスで保護され、 近づき過ぎると警報音が鳴るようになっています。

宮殿の素晴しい漆喰天井や、精巧に作られただまし絵の遊び心に溢れた 寄木細工のある、フェデリコの書斎も楽しめました。

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