美術館訪問記-170 聖バーフ大聖堂

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:聖バーフ大聖堂正面

添付2:「ゲントの祭壇画」全開状態

添付3:「ゲントの祭壇画」
翼を畳んだ状態

添付4:表側下段中央、神秘の子羊のパネル

添付5:下段左端、正しき裁き人のパネル

添付6:下段右端から2番目、隠修士のパネル

添付7:上段左から2番目「歌う天使達」

添付8:上段左端、「アダム」と「ケインとアベル」のパネル

添付9:上段右端、「イヴ」と「ケインとアベル」のパネル

ヤン・ファン・エイクの真の凄さを知るには、ベルギー、ゲントにある 「聖バーフ大聖堂」に行かねばなりません。

人類の至宝、門外不出の「神秘の子羊」、別名「ゲントの祭壇画」があるからです。

20年前この絵を初めて観た時は、我が目を疑いました。

この絵は1432年に完成していますが、580年以上前に描かれたとは信じられない 瑞々しさで、鮮やかな色彩の乱舞と緻密な形態が目に飛び込んで来たのです。

キリスト教の世界観を12枚のパネルで壮大に描いた祭壇画です。

上段中央の父なる神の衣の赤、その右隣の洗礼者ヨハネの衣の緑、 左隣の聖母マリアの衣の青、光背の金、下段の神秘の子羊のいる野原の緑、 これら艶やかな色彩の塊が、まるで昨日描いたような輝きを発しているのです。

その後、いかにも精密に写実的に描かれた人物、動物、植物、風景、建物、 衣類や王冠・宝石類、楽器、書物などが、それぞれの質感と実在感を主張しながら、 押し寄せて来るのです。

ここには絵画の持つ要素の全てがある。

写実的に描かれた絵としては、この絵に比肩し得るものは、 前にも後にも存在し得ないのではないか、とさえ思える程なのです。

地球上で最も素晴らしい名画は何か? と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか?

世界中の美術館や博物館、教会、邸宅を巡り、公開の場に存在する ほとんど全ての絵画を観て来た私は、迷わず、「ゲントの祭壇画」と答えます。

世界最初の本格的な油彩画にして世界一の名画。 何という天才が存在したものか。

この祭壇画の外枠下段に描かれた銘文には、「比肩するものなき偉大な画家 フーベルト・ファン・エイクが着手し、技能彼に続く弟ヤンが、ヨース・フェイト の懇望により、これを完成し、成されしものを保管せんことを、 この詩句もて汝らに請う」とありました。

つまりフーベルトとヤンの兄弟が、縦350cm、横461cmのこの大作を完成させた という事なのですが、フーベルトは1426年に死亡している事だけが明確で、 後の事は殆ど判らない。現存する彼の作品はこの祭壇画以外には一つもない。

今ではフーベルトが全体の構成と26枚のパネルに何を描くかを決めた後、死亡し、 残された弟のヤンが全てを完成させた、というのが一般的な理解のようですが、 銘文では、ヤンは兄にはとても及ばないとしている。

銘文は当然、生き残ったヤンが書いた訳で、 その控え目な態度にもヤンの人格がしのばれます。

ヤンが1425年から仕えた、当時世界で大きな権力と政治的影響力を持っていた、 ブルゴーニュ公フィリップ3世は、ヤンを寵愛し、当初から桁外れの給与を支払い、 その後二度もそれを倍増させ、ヤンの子供の名付け親にもなっています。

ヤンは宮廷画家として務めながらも、 個人的に仕事を受ける大幅な自由度も与えられており、 この「ゲントの祭壇画」も、当時ゲントの市長だったヨース・フェイトが、 自ら寄進した新しい礼拝堂の祭壇画としてフーベルトに依頼したものを、 引き継いで仕上げています。

両翼を畳んだ時に表れる下段の左側に、寄進者のヨース・フェイトが、 右側には、ヨースの妻のエリザベト・ボルルートが、描かれています。

この「ゲントの祭壇画」は、様々な宗教上のテーマを一つの祭壇画に集合させた、 最初のものでもありました。

寄進者達の間には、彫像のような洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネが、 その上段に当時のゲントの町を背景に、「受胎告知」が、 その上部のルネットには、キリスト誕生の預言者達が4人、描かれています。

表側の下段中央は、神秘の子羊を天使達が囲み、 その前景には、生命の泉を中心に、右側に12使徒を先頭とする、聖職者達、 左側に旧約の預言者達を筆頭とする、キリスト到来以前の人々が、 後景右には女性殉教者たち、左には男性殉教者達が描かれています。 遠景にはエルサレムの街の尖塔が見えます。

下段左端は正しき裁き人のパネルです。

この絵で何故そう言えるのかというのは、 実は、当時なら誰が見てもそれと判る中央パネル以外は、 絵の下の木枠の上に何が描いてあるのか、黒い彫り込み文字で書いてあるのです。

ちなみに、この絵の手前から三番目と四番目の人物は、 フーベルトとヤンの肖像画だとされています。

その右はキリストの騎士のパネル。

右端は巡礼者のパネル。赤いマントで目立つのは聖クリストフォロス。

クリストフォロスとは「キリストを背負ったもの」という意味で、 人々に奉仕するために、人を背負って川を渡らせていた巨人の彼が、ある日、 キリストを背負って渡らせてあげた、という伝承に基づくものです。

彼がまだ幼いキリストを背負って川を渡る絵は、頻繁に目にします。

その隣は隠修士のパネル。

背景の岩に隠れるようにして、 香油壷を手にしたマグダラのマリアとエジプトのマリアが、 救済の象徴として描かれています。

上段左右はアダムとイヴ。それぞれの隣に歌う天使達と奏でる天使達。

特に歌う天使達の表情は真に迫り、ドメニコ・ギルランダイオの乙女像が 500年余の時の隔たりを一瞬に飛び越えらせたように、 時間の隔たりを越えた、美の永遠性を痛感させられたのでした。

アダムの上には「カインとアベルの奉牲」、イヴの上には「アベルを殺すカイン」が 彫刻体として描かれており、アダムとイヴの犯す原罪が、 キリストによって贖罪することを示しているのだとか。

新しく造り出した絵具で革命的に新しい絵画を産み出したヤン・ファン・エイク。

彼が登場するまでは誰も描いた事のない、見た事さえない未知の絵でした。 しかも描いた絵は驚きと発見に満ち満ちていました。

そしてこの絵がその後の絵画の世界を大きく変えるのです。

有り得ない事を現実のように描く、神の手が描いた超現実の世界。 絵画の世界に燦然と聳え立つ油彩画の金字塔。

訪れた時は、大聖堂には荘重なパイプ・オルガンの音が鳴り響いており、 いやが上にも荘厳な気持ちで、人類の宝と言えるこの至上の名画を 眺めいったことでした。

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