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美術館訪問記 No.17 サンタンジェロ城

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

サンタンジェロ城正面

カルパッチョ作
「刺殺される聖パウロ」
キオッジャ司教美術館蔵

カルパッチョ作
「ラグーンでの狩猟」
ゲッティ美術館蔵

カルパッチョ作
「二人の貴婦人」
コッレール美術館蔵

大天使聖ミカエルの彫像

サンタンジェロ城から見たサン・ピエトロ大聖堂

再び盗難の話に戻りますが、ローマにある「サンタンジェロ城」を 訪れた時には、そのものズバリ「盗難作品展覧会」を開催中でした。 勿論全て取り戻されたものばかりです。

観てみると、あるはあるは、アントネッロ・ダ・メッシーナ、ベッリーニ、 ギルランダイオ、ペルジーノ、カルパッチョ、ラファエロ、セザンヌ、ルノワール、ゴッホ等、錚々たる作品が多くの美術館や教会から出品されています。
恐らく盗まれたままのものは、この何倍もあるのでしょう。

展示されていたカルパッチョの大作には感嘆しました。
草花の咲く野に、緑色の上衣と鮮やかな朱色のガウンを身に纏い、 長剣を持った聖人が一人佇むという構図ですが、 よく見ると聖人の胸に小さな剣が突き刺さっている。
「刺殺される聖パウロ」という表題です。

最初見た時はジョヴァンニ・ベッリーニの作かと思った華麗な構図と色使い。
名前を見るとカルパッチョ。
1520年、カルパッチョ最晩年の作ということになります。 この頃には彼もベッリーニやティツィアーノの影響を強く受けたのでしょう。
古めかしい図柄の多いカルパッチョとはとても信じられない構図と色彩です。 惚れ惚れと見とれました。
ヴェネツィアの少し南にあるキオッジャの司教美術館からの出展でした。

カルパッチョは盛期ヴェネツィア派を代表する画家の一人で、 彼の独特の赤を基調とした画風から、赤生肉を使ったイタリア料理にその名が ついている事でも知られていますが、1963年の発見でも有名になりました。

カルパッチョの代表作はヴェネツィアのコッレール美術館にある「二人の貴婦人」 とされていますが、この絵は二人の女性が何をしているのか明確でなく、 画面左の犬の頭部が切れている等、何か不自然な所がありました。

1963年にロスアンジェルスのゲッティ美術館にあるカルパッチョの 「ラグーンでの狩猟」の左下から伸びるユリの花と「二人の貴婦人」の左上の花瓶 に活けられた植物の茎がピッタリ一致する事が発見され、 この2枚の絵は元々1枚の絵を分割したものだというのが明らかになったのです。 しかし2つを継ぎ足すと異常に縦長になり、これらの絵の左側も同じように 切り離されていると推測されるようになりました。 それらのあるべき絵はまだ発見されていません。

実はコッレール美術館の「二人の貴婦人」は、昔は「二人の高級娼婦」と呼ばれて いました。所在なさそうに座っている二人が客を待つ娼婦と考えられたからです。 カルパッチョの生きた頃のヴェネツィアには、高級娼婦が大勢いたと言います。

それが「ラグーンでの狩猟」の発見で、二人は狩猟中の夫の帰りを待つ貴婦人と 見方が変わったのです。 娼婦が貴婦人になることで絵の価値には何ら変わりはありませんが。

さて、サンタンジェロ城(聖天使城)は139年ハドリアヌス帝の霊廟として 造営され、それを改修、増築して、要塞や牢獄、 はたまた教皇の住居などに使用してきており、現在は博物館になっています。 城の周りには多角形の城壁が巡らしてあり、 これを完成させたのは16世紀のピウス4世。 ローマの地図で見ると函館の五稜郭に極めて似ています。

螺旋階段で屋上にあがるとローマ市内が270度見渡せます。 足元にはテヴェレ川が流れています。 この城の名前の元となった大天使聖ミカエルの彫像コピーがある最上部が 片方の端にあり、そこには立ち入れず視界を遮っています。

本物は城の中。この像は590年ローマにペストが猛威を振るった際、 教皇グレゴリウス1世の前にミカエルが現れてペストの終焉を告げたという 伝説によって造られました。

屋上からサン・ピエトロ大聖堂が正面に見えます。 おそらくローマでも大聖堂の全貌が最もよく見渡せるポイントでしょう。

サンタンジェロ城とサン・ピエトロ大聖堂とは地下の秘密の通路で結ばれており、 有事の際には歴代教皇はここを伝って直接城に逃げ込み、籠城しました。 メディチ家出身のクレメンス7世などは、 1527年に神聖ローマ皇帝・カール5世の軍が攻めてきた時、 教皇と同盟を結んでいたフィレンツェ軍などを裏切り、ローマを開城して 自分は地下通路を通りサンタンジェロ城に逃げ込んでしまいました。 この時の略奪は6ヶ月も続き(サッコ・ディ・ローマ)、 黄金のローマといわれたルネサンス様式のローマは壊滅。

従って、ローマにルネサンス様式は無きに等しく、ローマにあるのは 古代様式かバロック・ロココ様式以降のものになります。

サンタンジェロ城がなければ、 ローマの歴史は違ったものになっていたかもしれません。 フィレンツェのように、ローマにルネサンス様式が残っていたら、 ローマにバロック様式があれほど浸透することはなかったかもしれません。

またヴァチカンの陥落は多くの画家に衝撃を与え、 深刻な情緒不安定になる者も出てきました。 この面からもルネサンスの時代は終わり、混乱する時代の精神を表すような、 捩じれた人体と不安定な構図、人為的色彩、寓意に富むマニエリスムの時代へと 移行して行くのです。

注:

聖パウロ:ユダヤ名はサウロ。聖人。歴史上の人物。5年頃-67年頃。 当初熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を迫害していたが、復活したキリスト の光を受け目が見えなくなったのを、キリスト教徒の祈りで開眼した事により キリスト教徒になる。「パウロの回心」として絵の主題にもなっている。 その後異邦人に広く布教活動を行い、最後はローマで殉教する。 ローマ市民権を持っていたので、磔刑ではなく斬首された。 そのため剣を持って描かれる。

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